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奥飛騨温泉郷の発見はいつ頃かはっきりしませんが、古くから飛騨と信州を結ぶ峠道として利用され、鎌倉時代には北陸諸国と関東をつなぐ鎌倉街道は、新穂高温泉から中尾峠を越え、焼岳の中腹を巻いて信州に出ていました。南北朝時代には南朝の慶長天皇や宗良親王が信州と越中の行き来に利用したと伝わっています。
戦国時代には、武田信玄が越中攻略の一環として山県昌景に命じて飛騨に侵攻し、その際に武田軍の兵士によって発見されたのが平湯温泉だと伝わります。
また、金森長近の軍勢に追われた高山・松倉城の三木秀綱と奥方衆が、中尾峠を越えて敗走しますが、信州の山中で土民によって殺害される悲劇もありました。
江戸時代の播隆上人は北アルプスの峰々を開山した僧侶です。
笠ヶ岳を開山した高山宗猷寺の僧・南裔上人の後、登山道が荒廃していることを知った播隆上人は、上宝の岩窟で修行を重ね、文政6年(1823)地元の農民を引き連れて笠ヶ岳に登り、登山道を再興しました。
そのとき現れた御来光(ブロッケン現象)と、天を突く槍ヶ岳に感動した播隆上人は、諸国を回って寄進を募り、文政9年(1826)に上高地から槍ヶ岳登頂に成功しました。その後も頂上に仏像を安置し、難所に鉄鎖を取り付ける、などの登山道整備を行い、北アルプス登山のさきがけとなりました。いまでも、北アルプス飛騨側の開山祭は播隆祭と呼ばれています。
北アルプスの山々は江戸時代には信仰登山の対象でしたが、明治時代には「日本アルプスの登山と探検」を著したウォルター・ウェストンら山好きな外国人によって日本人にスポーツとしての登山が紹介されました。明治初期には外国人キリスト教伝道師が入山すると天罰が下る、という迷信に拘る村人があり、彼は何度か笠ヶ岳登山を断念していますが、小島烏水といった日本の知識人の間にも登山ブームが起きました。
新穂高温泉の中尾村には奥山に詳しい樵や猟師が多く、明治の北アルプス登山の開拓時代に優秀な山岳ガイドを輩出しました。明治41年(1908)に設立された飛騨山岳会は、日本山岳会に次ぐ歴史の古さを誇ります。
乗鞍岳は、古くから飛騨の象徴として親しまれてきました。丹生川の板殿仙人こと板殿正太郎ら地元の篤信家によって登山道や山小屋の整備が進み、大正時代からは一般の登山もさかんになります。
大正3年(1914)平湯分教場に教員としてやってきた篠原無然は、山村の社会教育や女工問題に取り組むとともに、北アルプスを山岳公園にすることを説いて、地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備しました。彼は志半ばで吹雪の安房峠に倒れましたが、「飛騨青年の叫び」と題する歌を遺しています。
「ああ偉なるかな飛騨の山、ああ美なるかな飛騨の渓、ああ清きかな飛騨の水」
昭和16年(1940)、太平洋戦争が始まると、乗鞍岳のなだらかな山容に目をつけた軍部によって、山頂に航空機エンジンの高地実験場の建設がはじまります。軍部から協力を求められた濃飛乗合自動車と高山市は、終戦後に乗鞍岳が観光地となることを見込んでバスが通行可能な道路幅を確保しました。
結局、航空機エンジン実験は成果が出ないまま終戦を迎えましたが、地元の見込んだとおり、乗鞍岳の自動車道路は飛騨観光の先駆けとなりました。終戦直後の昭和23年(1948)には登山バスが運行を始めています。
その後、有料道路乗鞍スカイラインとしてオープンしましたが、夏休みシーズンには山頂駐車場に入りきらないマイカーで渋滞し、自然環境に悪影響を与えていました。有料道路の償還期限となる平成15年(2003)から岐阜・長野両県は乗鞍岳山頂につながるスカイラインとエコーラインでマイカー規制を実施しました。
新穂高温泉は、北アルプス登山の開拓時代を先導しましたが、大正9年(1920)に発生した笠ヶ岳・穴毛谷の土砂崩れにより、登山基地であった蒲田温泉が崩壊する大災害に見舞われます。昭和9年のバス開通で観光地として脚光を浴びた信州・上高地に対し、戦後まで北アルプス飛騨側の復興は進みませんでした。
そのため、上高地が東京・銀座並みの観光客で賑わいを見せる一方で、飛騨側は長らく「裏穂高」という不本意な呼ばれ方をしていましたが、温泉と奥飛騨観光の復活にかける地元の人々の熱意により、昭和45年(1970)新穂高温泉から北アルプス・西穂高岳の千石平を結ぶ新穂高ロープウェイが開業しました。
ロープウェイをきっかけに、安房トンネルの開通など奥飛騨の交通網も飛躍的に整備され、今では日本一の露天風呂天国として人気の山岳観光地になっています。
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