|
平湯温泉は乗鞍岳の北麓、標高1300mにある高原のいで湯。
北アルプスの十字路にあたり、西は高山市、東は信州、そして奥飛騨温泉郷の各温泉地に通じる交通の要所です。
関東方面から飛騨の玄関口になる他、上高地、乗鞍岳といった北アルプスの主要観光地へ向かうバスの中継地でもあり、大きな駐車場も整備されていることから、夏のシーズンを中心に、年間を通して多くの観光客でにぎわいます。
泉質:単純温泉、ナトリウム、カルシウム、炭酸水素塩泉など
泉温:40℃〜90℃
効能:胃腸病、リウマチ、神経痛、皮膚病、婦人病など
平湯温泉は40の源泉と、毎分1万3000リットルもの豊富な湯量を誇り、旅館によって泉質の異なる温泉が湧いています。無色透明のお湯から乳白色のお湯まで、温泉の豊富さが魅力です。
お湯一面に湯ノ花が浮遊しており、入浴すると肌に成分の濃さがまとわりつく感じがします。硫黄の匂いが、お湯から上がった後もしばらく取れないほどです。
戦国時代、武田信玄の軍勢が飛騨に侵攻したときのことです。武田軍は北アルプスの難所、安房峠を越えて飛騨に入りましたが、険しい山道と、硫黄岳の火山ガスにやられて疲れ果てていました。そのとき、老いた白猿が湯浴みしているのを見て温泉が発見され、兵士たちは元気を取り戻したと伝えられています。
江戸時代に入ると、平湯温泉は、北陸諸藩の大名たちが参勤交代で江戸へ向かう際の宿場になりました。
明治に入ると、乗鞍岳山中に平湯鉱山が開発されて、大いに活気づきました。北アルプス登山の途中に立ち寄った英国人宣教師ウォルター・ウェストンも、鉱夫の宴会に芸人が呼ばれるほどにぎわった様子を著書に書いています。
大正時代、平湯分校に教師として赴任した篠原無然は、山深い平湯の地で社会教育活動に情熱を注ぎ、多くの人々に慕われました。彼は地元の青年たちを指導して乗鞍岳の登山道を開拓しました。
戦後は北アルプス観光の拠点として、安房トンネルを通じた飛騨の玄関口としてますます発展しています。
|
平湯温泉名物は、湧き出る温泉に浸かったはんたいタマゴです。
75℃〜80℃の低温でたまごを茹でると、沸騰水で茹でるのとは反対に、白身は半熟なのに、黄身が先に固く茹で上がる不思議なゆでたまごができあがります。
平湯温泉街のみやげ店には、軒先に熱い温泉が湧き出しています。その場で塩を振って食べるのがおいしい食べ方です。 1つ50円くらい。 |
旧上宝村の茅葺古民家と、富山県五箇山地方の合掌造り民家を移築しています。
氷河期の生き残りといわれる珍しい高山蝶の標本や、奥飛騨に伝わる伝統民具や農具、色鮮やかな祭り衣装などが展示されているほか、円空仏を安置する薬師堂、奥飛騨の聖人として慕われた篠原無然の記念館もあります。
平湯民俗館に併設された露天風呂「平湯の湯」は入館料で入浴できます。合掌造り民家を見ながらの温泉は、平湯温泉の中心に近いながら野趣に富み、大きな屋根のついた石組みの湯船に、鉄分を含んだ茶色の濁り湯が溢れています。
8時〜17時 500円 無休 電話:(0578)89−3578
バスターミナルとひらゆの森の間にある、中部山岳国立公園の平湯ビジターセンターです。北アルプスの自然と、奥飛騨の生活文化を展示・解説しています。
北アルプスの大きなジオラマで登山ルートを見ることができるほか、火山と温泉の仕組みの解説や、動物、植物の標本が展示されています。
センターの背後に広がる原生林には、全長2kmの平湯自然探索路が延びていて、ここを利用しての観察会も開かれています。
9時〜17時 入場無料 休:水 電話:(0578)89−2618
|
乗鞍岳北面の水を集めて一気に流れ落ちる落差64m、幅6mのダイナミックな滝です。
飛騨三名瀑のひとつで、日本百名瀑にも名を連ねています。乗鞍岳登山道の傍らにあって、アルピニストたちに愛されてきました。
明治時代に日本アルプスを世界に紹介したウォルター・ウェストンは乗鞍岳登山の途中で見た大滝について、「画のような谷間の木の間に、柔らかい絹リボンのようにかかっている」と絶賛しています。
平湯温泉の近くながら、原生林と岩壁に囲まれた谷間にあって、深山幽谷の雰囲気が漂います。新緑や紅葉など、四季折々に美しさがあり、特に冬の全面結氷した様子は神秘的です。 |
北アルプスの名瀑・平湯大滝のふもとに整備された無料の農業テーマパークです。
産直野菜を使ったレストランや青空市場、そば打ち道場、パン、バター作りなどの体験教室があります。入口から、庭園風の遊歩道を通って平湯大滝へは徒歩10分ほど。
シャトルバスも運行されています。(片道100円)
夏には、大滝川の清流で水遊びすることもできます。
9時〜18時 入場無料 無休 電話:(0578)89−1250
|
毎年2月に開催されるイベントです。
高さ64mの平湯大滝が凍結して、自然が作り出す氷の芸術になります。寒さが厳しいことからできる、天然の青色が印象的です。
夜はライトアップされて暗闇に青白く浮かび上がり、一層幻想的になります。
平湯大滝公園周辺では太鼓や獅子舞などが行われますが、バスターミナルの駐車場に作られた巨大なかまくらの中にも、特設バーがあって、焼酎などが振舞われます。
|
飛騨高山と平湯温泉を結ぶ国道158号線の峠です。現在は平湯トンネルで通過しますが、乗鞍スカイラインで畳平に上るシャトルバスは旧峠辻を経由します。
平湯トンネルを抜けたカーブ辺りから笠ヶ岳の姿が見え、眼下に平湯温泉の街並みが広がる風景はまさに絶景です。
「登り来て 平湯峠ゆ見はるかす 飛騨の平に雪こごりたり」若山牧水
「平湯峠が海ならよかろ 可愛い殿御と舟で越す」飛騨やんさ
平湯温泉と信州を結ぶ国道158号線の峠です。かつては難所の峠道として知られ、北陸方面から関東に向かう最短ルートでもあったので、春から秋には大型トラックや観光バスで常に渋滞が発生していました。
現在では中部循環自動車道安房トンネルが開通し、火山地帯の地下をあっという間に走り抜けてしまいます。安房峠を訪ねる車はめっきり少なくなり、峠の茶屋も閉鎖されました。それでも、噴煙を上げる焼岳山頂ドームから穂高岳の吊尾根まで、峠から望む素晴らしい山岳風景は昔と変わっていません。
大正3年(1914)早稲田大学を出た青年が上宝村にやってきました。奥飛騨の先覚者・篠原無然です。
北アルプスの山々に魅せられた無然は、平湯分校の代用教員を勤める傍ら、若者を集めて夜学を開くなど、人々の生活向上や社会教育に力を注ぎました。
奥飛騨を日本の山岳公園にしよう、と考えた無然は、青年団や女子会の若者たちを率いて山に登り、登山道を切り開きました。乗鞍岳の土俵ヶ原、桔梗ヶ原、富士見岳、里見岳などの名称も無然が付けたものだといわれています。
無然は各地で講演に頼まれたり、郷土の誇りや希望を歌にして、飛騨中の人々の敬慕を集めました。また、当時、信州の紡績工場へ出稼ぎに行った女工たちに関心を持ち、その待遇改善に尽力しました。
しかし、彼をねたむ者によって心無い噂を立てられ、後ろ髪を引かれるように飛騨を去ることになります。人に誘われて、数年間を東京や大阪で社会事業に活躍しますが、飛騨の人々を忘れられません。
大正13年(1924)11月、彼を支持する若者たちに請われて東京から平湯へ帰る途中、無然は吹雪の安房峠で遭難死しました。36歳でした。
ああ偉なるかな飛騨の山 ああ美なるかな飛騨の渓 ああ清きかな飛騨の水
「飛騨青年の叫び」篠原無然
そのむかし、信州で上杉謙信と戦いを続けていた武田信玄は、越中攻略のために、飛騨へ攻め込みました。
武田信玄配下の武将、山県昌景は軍勢を引き連れて峠を越えましたが、北アルプスの険しい山道に苦しみ、硫黄岳の火山ガスにやられて倒れる兵士が続出しました。
やっとの思いで麓へたどり着いたとき、満身創痍の武田軍を先導するかのように、一匹の老いた白猿が歩いてゆきます。白猿は湯だまりにやってくると、気持ちよさそうに湯浴みをはじめました。
兵士たちは我先にと、猿の教えてくれた温泉に入って疲れを癒し、みるみる元気を取り戻しました。
その昔、乗鞍岳山麓、平湯の里に一人の行者がやってきました。
重々しい呪文を唱え、見たこともない天狗のような服装をした行者は、村人たちの注目の的です。
ある日、温泉にやってきた行者は、湯が思ったより熱かったので、呪文を唱えて入りました。一緒にいた若者たちは、温泉が適温になったので、さかんに行者をほめました。
得意になった行者は、あんなこともできる、こんな術もやる、と大風呂敷を広げます。すると、ある男が言いました。
「山伏様でも川の近くの湯だけはどうにもなるまい。なにしろ地獄へ続く湯だからなあ」
行者は意地になって若者と張り合い、ついに次の日、村人の目の前で熱湯に入ることになりました。みんなが見守る中で呪文を唱えて温泉に飛び込みます。神通力で熱湯は水に戻りますが、それも一瞬だけで、次々に湧き出る湯をどうすることもできません。
行者は必死で呪文を唱えながら飛び出そうとしましたが、底がつるつる滑って上がれません。村人は行者が苦しめば苦しむほど真剣に祈っているのだと思っていました。
行者は、とうとうゆでだこのようになって死んでしまいました。 それから、誰言うとも知れず「山伏の湯」といわれるようになりました。
|
|