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日本地図を広げてみれば、そのほぼ中央にあたる飛騨はほとんど濃い茶色に彩られた山岳地帯で、特に飛騨と信州の境をなす北アルプス南部には、3000m級の名だたる峰々が連なっています。ここが日本の屋根と呼ばれるゆえんです。
(福地山から北アルプスのパノラマ)
北アルプスで最も有名な山が槍ヶ岳(3180m)です。
その鋭く天を突く姿は日本のマッターホルンともいわれます。この山は氷河期に長い年月をかけて削られてできた岩峰で、東西南北に走る鎌尾根と呼ばれる険しい稜線のふところに氷河時代の名残である圏谷(カール)を残しています。
登山道は、これらの尾根や沢につけられていますが、一般ルートとしては、上高地から梓川上流の槍沢をつめて登るルートと、新穂高温泉から右俣谷をつめて登るルートがあります。垂直に切り立った岩場に連続する鎖やハシゴをよじ登り、山頂に立つと、さえぎるもののない大パノラマが広がります。
日本第3位の標高を誇る奥穂高岳(3190m)を主峰とする穂高連峰は、北穂高岳・涸沢岳・奥穂高岳・西穂高岳など、どの山を見ても険しい岩場、沢、尾根とさまざまな変化に富んで、近代登山の重要な舞台となってきました。
夏冬を問わず、滝谷や奥又白、屏風岩といった日本有数の岩場に多くのクライマーが挑み、アルピニストのメッカになっています。
穂高岳への一般登山ルートは、槍穂高縦走路のほか、上高地から涸沢を経て北穂高と奥穂高へ登るルート、同じく上高地から岳沢を経て前穂高から奥穂高へ縦走するルートや、新穂高温泉から穂高連峰へ突き上げる白出沢をつめるルートがあります。
最南部に位置する西穂高岳(2909m)は、新穂高ロープウェイを利用して、千石平(2156m)まで上がれるため、穂高連峰の中では一番登りやすい山ですが、それでも険しい岩稜が連続し、初心者は最初の岩峰である独標(2702m)までが無難です。
飛騨から眺める北アルプスの連なりの中でも、ひときわ山容の美しさで目を引くのが笠ヶ岳(2898m)です。
新穂高温泉から一番近くにあおぎ見るのが笠ヶ岳で、北へ連なる抜戸岳、弓折岳とともに、稜線直下にいくつかカール地形を残しながら、のびやかなスカイラインを描いています。また、笠ヶ岳の南には、岩壁をすっぱり切れ落としたような特異な山容を持つ錫杖岳(2168m)があり、特に中尾高原から見る岩峰の姿は圧巻です。
笠ヶ岳は古い宗教的開山の歴史を持つ山で、笠のような美しい形から、飛騨びとの信仰の対象にもなってきました。現在では左俣谷からの笠新道、槍見温泉からクリヤ谷をつめるルートがありますが、どちらも標高差が大きく厳しいため、距離は長いものの鏡平を経て抜戸岳の稜線を縦走するルートに人気があります。
笠ヶ岳周辺の山の良さは、静けさと眺めの素晴らしさにあります。深くえぐられた新穂高の谷をへだてて、槍・穂高連峰の大パノラマを眺めながら、ハイマツの稜線をゆったりと歩くとき、自然との一体感とやすらぎを感じることができます。
焼岳(2458m)は決して標高は高くありませんが、北アルプス唯一の活火山という個性的な姿でよく目立ちます。
噴火の記録もたびたびあり、大正5年(1916)に大爆発を起こして土石流が上高地を流れる梓川の流れを塞き止め、あっという間に大正池を生みました。今では大正池は上高地を代表する景観になっています。その後は昭和37年(1962)に大爆発して当時の焼岳小屋を吹き飛ばし、長らく登山禁止の山でした。
現在では南峰を除いて登山は可能です。上高地と新穂高温泉・中尾高原から新中尾峠を経て北峰へ登るルート、中の湯温泉から直接北峰へ登るルートがあります。
頂上は眼下に上高地を見下ろし、穂高岳と笠ヶ岳、南に乗鞍岳を望む展望台です。
播隆上人は北アルプスの峰々を開山した僧侶です。笠ヶ岳を開山した高山宗猷寺の僧・南裔上人の後、登山道が荒廃していることを知った播隆上人は、岩窟で修行を重ね文政6年(1823)地元の農民を引き連れて笠ヶ岳に登り、登山道を再興しました。
そのとき現れた御来光(ブロッケン現象)と、天を突く槍ヶ岳の姿に感動した播隆上人は、諸国を回って寄進を募り、文政9年(1826)に上高地から槍ヶ岳に登頂しました。
その後も頂上に仏像を安置し、難所には鉄鎖を取り付ける、など登山道の整備を進めて、北アルプス登山のさきがけとなりました。いまでも、北アルプス飛騨側の開山祭は播隆祭と呼ばれています。
明治時代に日本に滞在した英国人宣教師です。明治21年(1888)から3回に渡って来日、15年間を日本で過ごしました。その間、日本各地の山々を歩き、紀行文「日本アルプスの登山と探検」や「極東の遊歩場」で世界に紹介しました。
その後、ウェストンの影響を受けて、日本人にもスポーツとしての登山が盛んになってきます。ウェストンは小島烏水らに働きかけて日本山岳会を設立するなど、「日本アルプスの父」と呼ばれています。
明治時代、日本にやってきたウォルター・ウェストンら登山好きの英国人が日本アルプスを歩き、その魅力を紹介すると、日本人の間でも大正の頃からスポーツとしての登山が盛んになりました。
新穂高温泉の中尾村には、奥山に詳しい樵や猟師が多く、北アルプス登山の開拓時代に優秀な山岳ガイドを輩出しました。ガイドらによって設立された飛騨山岳会は、日本山岳会に次ぐ長い歴史を持っています。
「上高地の常サ」と尊敬された内野常次郎をはじめ、中島作之助、杉本為四郎、滝沢喜一郎、中島政太郎らの名ガイドたちは、その朴訥な人柄と豊かな経験で登山者から慕われました。 また、前穂高岳の重太郎新道や、双六岳の小池新道などの登山道に開拓者の名前がついています。
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