Panorama飛騨 飛騨路と北アルプスの絶景地ガイド

 
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飛騨高山の歴史


古代の飛騨高山

 高山は山国・飛騨国の中央にあって広い盆地であることから、古くから開けていたと思われます。白鳳時代には高山盆地に仏教寺院が4ヶ寺、古川盆地に8ヶ寺あり、相当早い時期に仏教文化を受容していました。
 奈良時代には聖武天皇の発願により、飛騨国分寺と国分尼寺が建立されました。
飛騨国分寺は現代まで存続する数少ない国分寺のひとつです。創建当時は七重塔でしたが、戦乱や災害に遭うたびに五重塔、三重塔とスケールを小さくして再建され、現在は江戸時代に作られた三重塔が立っています。なお、国分尼寺は現存しませんが、市街地の西にある辻ヶ森三社が跡地だとされています。

 古代の飛騨には東山道飛騨支路が官道として通じていました。高山盆地には駅伝制の「石浦駅」が設けられましたが、終点である飛騨国府がどこに存在したか分かっていません。高山市北部の国府町には「こう峠」など「国府」を示す地名が残りますが、国分寺や国分尼寺があった高山盆地説も有力です。
 奈良時代から平安時代にかけて、飛騨国の租庸調を免除する代わりに、1里(50戸)あたり壮丁10人を建設作業に派遣する「飛騨の匠」制度が定められ、1年に100人を越す男たちが位山峠を越えて東山道を都に向かって歩きました。

中世から戦国時代

 平安末期の飛騨は平家領とされ、三仏寺城(三福寺町)に平時輔が飛騨守として着任しましたが、その後、平景高の代に木曽義仲配下の武将・今井四郎兼平による攻撃を受けて敗れています。
 鎌倉時代の高山盆地の様子はよく分かっていません。飛騨国一円が美濃白山長滝寺の寺領であり、一之宮郷、久々野郷、石浦郷、山之口郷を社領とする飛騨一之宮水無神社も栄えました。水無神社の宮司・一宮氏は領主として自立しており、こうした国人と呼ばれる小豪族が各地に勢力を持っていました。

 鎌倉幕府が倒れて南北朝時代になると、飛騨北部の古川盆地には南朝方から飛騨国司・姉小路氏が派遣されて土着します。対する北朝方は飛騨国守護に京極氏を任命し、飛騨には代官が派遣されました。
 京極氏家臣の白井太郎俊国が飛騨国主を称した記録が残っていますが、ほどなく主家の衰えに乗じた配下の多賀氏や三木氏が国人を束ねて飛騨各地で自立し、戦国武将化していきました。飛騨高山の地名は、天神山城に拠点を構えた多賀氏(高山氏)に由来します。

 その高山外記を破った三木氏が高山盆地を手中に収め、古川盆地の姉小路家を吸収して公家の名門・姉小路中納言を名乗ります。三木自綱が北飛騨・高原郷の江馬氏を破って飛騨をほぼ統一しました。しかし、三木氏は高山盆地の西端にある松倉山に城を築いた数年後、豊臣秀吉に抵抗したために、豊臣配下の武将・金森長近の侵攻を受けて滅亡します。
 三木自綱は反対する国人や家臣、自分の家族まで粛清して恨みを買っていたため、金森軍を歓迎する者も多く、また、粛清により国人勢力が一掃されたことは金森長近の飛騨掌握をスムーズにしました。

金森藩から天領へ

 文化人として知られた金森長近は、高山盆地を流れる宮川を鴨川に見立てて、碁盤目状の街区を整え、神社仏閣を東山丘陵に集めるなど、京都を意識した街づくりを行いました。その一族からは宗和流茶道の開祖・金森宗和や落語の始祖・安楽庵策伝といった文化人を生み、金森氏6代107年にわたる治世のうちに、高山に京都の文化が根付いていきます。

 元禄5年(1692)金森氏は出羽上山に移封され、飛騨は徳川幕府の直轄地として、江戸から高山陣屋に派遣された代官、郡代が統治するようになります。武士がいない高山の街では、「旦那衆」と呼ばれる豪商たちが力を持ち、幕府や北陸諸藩の大名にまで資金を融資しました。京都好みの文化に加えて江戸の情報も入るようになったため、高山祭りや工芸品、高山の町家造りなどの町人文化が花開きました。

 高山近郊の農村の次男・三男だった男性が、農産物や材木の商い、酒造業から身を起こして成功したのが旦那衆です。そのため、屋号は出身地から取られています。
町人たちは飛騨を揺るがした大原騒動では、農民一揆を鎮圧する幕府権力側に立って協力しました。その一方で、困窮する農村の救済事業にも熱心に取り組み、現代に伝わる豪華絢爛な祭屋台の数々は飢饉の年の雇用対策、一種の公共事業として豪商たちが拠出した金で作られたと言われています。

近代の飛騨高山

 慶応4年(1868)、明治維新が起こると郡代内膳正功は江戸へ去ります。
 飛騨を接収した新政府の東山道鎮撫使・竹沢寛三郎は五箇条の御誓文や年貢半減などを説いて人々の期待を集めますが、ほどなく水戸出身の27歳の青年・梅村速水が高山県初代知事として着任しました。
 新時代の理想に燃える梅村知事は次々と新政策を打ち出しますが、善政の一方で、旦那衆の経済活動を奪い、知事直属の治安部隊・郷兵隊が町火消組と対立して人々の不満が募りました。明治2年(1869)反知事の梅村騒動が爆発すると、混乱期に無用の騒動を嫌った政府は梅村知事を解任して投獄しました。

 明治初期には高山市街北部を焼失する大火が続きました。日下部家や吉島家の再建は、江戸時代の建築技術を残しながらも幕府権力に遠慮して家の高さや材料を制限する必要がなくなったので、非常に豪勢な町家建築になりました。

 飛騨国は高山県から筑摩県、岐阜県へと統合され、高山はその中心都市でしたが、山国で交通網から取り残され、鉄道開通が長年の悲願でした。国鉄高山線は昭和9年にようやく高山駅まで全通し、人々が発展に期待したのも束の間、時代は戦争一色になって発展どころではなくなり、奇跡的に古い町並みが残されます。

現代の飛騨高山

 戦後の混乱が収まり、登山ブームが起きた昭和30年代、飛騨側から北アルプスに登山した人たちは、帰りの列車を待つ時間に飛騨高山を歩き、昔の街並みや伝統工芸が残っていることを発見しました。
 雑誌編集長であった花森安治は「暮しの手帳」で飛騨高山を「山の向こうの町」と初めて紹介します。その後1970年代に国鉄のディスカバージャパンキャンペーン、雑誌アンアンやノンノの創刊などで、アンノン族と呼ばれる若い女性の旅行ブームが始まり、飛騨高山は全国有数の観光地になっていきました。

 一方で、高度経済成長期の飛騨では、全国と同じく生活環境の変化に伴う環境問題が生じていました。ごみや生活廃水が垂れ流される宮川から魚の姿が消え、市民の間に環境改善運動が起こります。子ども会を中心に、川に関心を持つために鯉が放流されました。市民がごみを捨てない運動や排水問題に取り組んだ結果、飛騨高山の水辺が蘇りました。

 平成17年(2005)白川村を除く大野郡全町村と吉城郡国府町・上宝村が高山市に吸収合併され、日本一広い高山市が誕生しました。


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