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高山陣屋
江戸時代に徳川幕府の代官、郡代が政治を司った役所で、各地に66ヶ所あった郡代陣屋、代官所のうち、現存するものとしては全国唯一です。
飛騨の藩政時代、金森三代重頼の時代に、高山城から宮川をはさんだ対岸に娘のための下屋敷が建てられました。元禄5年(1692)、金森氏が出羽上山に国替えになり、飛騨が徳川幕府の天領になると、下屋敷が陣屋に定められ、以降、明治維新まで江戸から派遣された代官、郡代が25代、177年間にわたって統治しました。
明治以降も、高山県庁、筑摩県、岐阜県の飛騨支庁、県事務所として昭和44年(1969)まで使われ続け、270年もの間、飛騨の政治の中心でした。
8:45~17時 420円 休:年末年始 電話:(0577)32-0643
玄関
高山陣屋正面には徳川家の家紋である「葵の御紋」の入った幕が掲げられ、玄関の床の間には、時代劇でおなじみの青色の青海波文様が描かれています。青海波文様は徳川将軍家だけに許されたシンボルで、権威の象徴です。
郡代御役所と御用場
玄関から右へ入った二間続きの広間が御役所と御用場です。
御役所は郡代に従って江戸から派遣されてきた中央エリートの執務室、御用場は藩政時代から高山に住んできた地役人、いわばノンキャリアの事務室です。畳の縁の文様が違うなど、細かいところでキャリア組とノンキャリ組の区別がされています。
御役所、御用場に面した縁側と土間は、民事訴訟を扱うお白洲です。土間は町人や農民、板の間は武士と僧侶神官が座るなど、身分差別が厳しく行われました。
町年寄詰所
高山陣屋の管轄は飛騨国と越前の幕府領にまたがる広大な範囲に及びましたが、そこを治める役人の数は、中央派遣の役人が20名ほど、地役人が50名ほどでした。
しかも、国境の関所や山林見回りなどに人数を割かなければならず、陣屋で勤務する役人はほんの少数だったと思われます。そこで、高山の町は裕福な町人の自治に任されており、町人の代表・町年寄が陣屋に詰めて行政の手伝いをしていました。
町年寄詰所、寺院詰所、町組頭詰所が並び、その隣に陣屋で働く役人の茶呑所や、郡代屋敷に通じる長い廊下があります。
郡代屋敷
江戸時代の天領であった期間に、歴代25人の代官・郡代が生活した公邸です。
飛騨国は金森藩政時代、増税のために机上の計算で石高を6万4千石と称しました。幕府は天領初期に元禄検地を行って石高を4万4千石に戻し、さらに年貢を減税したので農民たちに歓迎されます。しかし、第12代代官として着任した大原彦四郎は、幕府の財政窮乏を理由に再検地を強行し、反対する農民たちと衝突しました。
これが16年に渡って飛騨を揺るがした大原騒動です。農民一揆を弾圧して、1万石増の5万5千石にした大原代官は、その功績によって郡代に昇格しましたが、息子の大原亀五郎郡代は不正を暴かれて流罪となり、農民側が勝利を収めました。
民話 陣屋の猫稲荷
ある郡代のころ、郡代の愛娘はたいそう飼い猫を可愛がっていました。
夏の昼下がり、その猫がいつになく娘にじゃれついて離れません。周囲の者たちも、猫の様子がおかしいと大騒ぎになりました。郡代の側近が「この妖猫め」とばかりに一刀両断に切り付けたところ、猫の首はすぽーんと宙を飛び、軒先から鎌首をもたげていた大蛇に喰らいついて一緒にどさっと地面に落ちました。
猫は娘を狙っていた大蛇に気づき、命を張って守ろうとしていたのでした。郡代は猫に感謝して、陣屋の一角に猫稲荷を祀りました。その社は、明治時代に近くの一本杉白山神社境内に移され、現在でも残っています。
台所
郡代などの食事を作った台所です。
隣には広い土間があります。
大広間
広さが49畳ある大広間は、書院と呼ばれて会議や儀式などが行われた部屋です。
隣の使者の間は、江戸からの使者や賓客の控室で、駕籠が展示されています。
御白洲
玄関の左隣にあり、時代劇でもおなじみの刑事裁判が行われた場所です。御白洲は屋外ですが、高山の冬は寒いため、板壁の囲いがあります。
砂利敷きの御白洲には拷問道具や囚人護送用の駕籠があります。
御蔵
高山城三の丸から移築されたと伝わる年貢米の貯蔵蔵で、現存する土蔵としては全国最古・最大のもの。
高山陣屋にまつわる歴史資料を展示しており、いわば江戸時代の行政の博物館です。
大原騒動や梅村騒動といった農民一揆の資料、明治維新で新政府が掲げた「天朝御用所」の札などを見ることができます。
16年続いた大原騒動
明和2年(1765)第12代代官として大原彦四郎が着任しました。幕府の財政窮乏を理由に、大原代官は人々の不満を招く政策をとりました。
林業を生業とする山村にとって、森林伐採の中止と幕府が支給する山方米の停止は死活問題であるため、猛烈な反発を生みました。農民に対しても厳しい検地を行ったので、ついに飛騨中を巻き込む農民一揆が起こります。これが大原騒動です。
一揆は明和、安永、天明の3度、16年間にわたって続きました。
農民たちは年貢米の江戸送りに協力した人々の家や土蔵を襲い、検地の無効を京都の公家や江戸の幕府老中、勘定奉行所へ直訴したものの打ち首になりました。
大原代官は飛騨283村の代表者を呼び出し、一揆は過激な扇動に乗せられたもので村々の総意ではない、と申し出させたため、若干19歳の本郷村善九郎を筆頭に立ち上がった農民たちは飛騨一之宮の境内で2ヶ月にわたる集会を開きます。
高山の旦那衆と呼ばれる裕福な町人たちは、農民一揆に組せず郡代に協力していました。その高山の町を経済封鎖した農民たちに対し、大原代官は近隣諸藩に鎮圧を要請、一之宮神官や農民13人を処刑、14人を流罪、数百人を入牢という厳しい弾圧を行いました。処刑前、本郷村善九郎が妻かよに宛てた辞世の句が残されています。
寒紅は無常の風にさそはれて莟みし花の今ぞ散りゆく 常盤木と思うて居たに落葉かな
農民たちの敗北によって検地が進み、飛騨は1万石増の5万5千石となり、その功績によって大原代官は郡代に昇進します。しかし、大原彦四郎の妻は農民へのひどい仕打ちを咎めて自殺してしまいました。
天明元年(1781)父親彦四郎の後を継いで飛騨郡代に就任した大原亀五郎は、年貢の減税分を私費にあて、天明飢饉に対する幕府の救援金も着服しました。さらに、独断で農民に年貢減税を10年間返上させようとしたため、農民一揆が再燃します。
寛政元年(1789)行政事情の査察のため飛騨を訪問した幕府巡検使に対して、大沼村忠次郎が農民を率いて大原郡代の悪政を訴え、江戸でも幕府大老松平越中守に直訴しました。
ついに江戸で裁判が行われ、大原亀五郎は八丈島へ流罪、幕府勘定奉行や美濃郡代も処罰されるなど、農民側が大きな勝利を収めました。
明治維新と梅村騒動
慶応4年(1868)明治維新が起こると郡代内膳正功は江戸へ去り、飛騨は新政府に接収されました。東山道鎮撫使・竹沢寛三郎は高山陣屋に「天朝御用所」の札を掲げ、「五箇条の御誓文」や年貢の半減などを説いて人々の期待を集めます。
その後、高山県初代知事に任命されたのが梅村速水、水戸出身でまだ27歳の青年でした。新時代の理想に燃える梅村知事は次々と新政策を打ち出します。
堤防工事や新田開発、孤児の保護などは善政と言われましたが、一方で林業を生業にする山村に幕府が支給していた山方米を廃止し、商業を商法局による専売制にして、旦那衆から経済活動を奪いました。特に、知事直轄の治安部隊として組織した郷兵隊は、高山や古川の火消組と縄張り争いを繰り広げます。
梅村知事は反対者への処罰を厳しく行ったため、ついに人々の不満が爆発し、梅村騒動が起こります。
明治2年(1869)出張先の京都で騒動を聞いた梅村知事は、急いで飛騨へ引き返したものの、萩原で農民一揆の暴徒に襲われ、美濃苗木藩へ逃亡しました。戊辰戦争の続く動乱期で、飛騨で無用の騒動が起きるのを嫌った新政府は梅村知事を解任して投獄し、翌年、東京の刑務所の中で亡くなりました。
高山県は明治4年(1871)廃止されて松本に県庁を置く筑摩県に合併し、さらに9年(1876)筑摩県の廃止に伴って岐阜県に編入されました。明治時代の岐阜県議会では、山岳地帯の治山事業を求める飛騨地方と、輪中地帯の治水事業優先を主張する美濃地方が対立し、皮肉にも「飛山濃水」という岐阜県を象徴するキャッチフレーズが生まれたとも言われます。
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