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下呂温泉の東南、下呂市と中津川市にまたがるエリアです。
飛騨と東濃をむすぶ国道257号線は裏木曽街道とも呼ばれますが、裏という語感と異なり、大きく空が開けた明るい谷間が広がります。トマトや高原野菜の生産がさかんなところです。
下呂温泉に隠れるようにたたずむ秘湯・乗政温泉、滝が美しい乙女渓谷といった大自然があり、江戸時代から続く地歌舞伎などの伝統文化も継承されています。
乗政温泉は延享4年(1747)以前に発見され、鉱泉を汲んで利用していました。
その昔、美濃苗木藩の殿様が胃腸を患ったとき、乗政温泉の噂を聞きつけ湯治に訪れました。設備のない山中のため、殿様が滞在するふもとの宿まで湯男に鉱泉を運ばせましたが、その苦労を不憫に思った殿様が源泉に湯屋を作らせたのが乗政温泉の始まりと伝えられます。
泉質:含炭酸重曹泉
電話:米野旅館(0576)26−3311
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乗政温泉から細い道路を白草山登山口めざして上がっていくと、下呂温泉乗政キャンプ場があります。
キャンプ場の駐車場に車を置いて、遊歩道を下りていくと、緑に包まれた乗政大滝の滝壺近くに出ます。年間を通して水量が豊富なので、夏は滝の飛沫をたっぷり浴びて涼むことができます。
落差21m、岐阜の名水50選。
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乗政温泉の手前、宮地地区には平安の昔から、出羽三山の湯殿山を本山とする寺があり「難病から人を守る寺」として、広く信仰を集めていました。
戦国時代、飛騨を統一した三木氏ははじめのころ竹原郷の宮地城を本拠地にしていました。このため、三木氏一族の信仰が厚く、三木良頼は飛騨の統一に当たって、改めて寺を建立し寺号を金錫山地蔵寺としました。
本尊の「延命地蔵願王菩薩」は、胎内に15cm程の地蔵さまを秘蔵し、胎内を守り、内蔵の病「ガン」を治す地蔵さま、子どもを守り、道行く人を守る(交通安全)仏さまと伝えられています。
時間:09時〜16:30 休:木 電話:(0576)26−2611
中濃・東濃地方から南飛騨にかけての一帯は江戸時代から村芝居がさかんで、日本三大歌舞伎地帯のひとつといわれました。戦前まではあちこちに芝居小屋があり、村人にとって地歌舞伎が最も楽しみな娯楽でした。しかし、戦後の高度経済成長による生活の変化やテレビの普及によって多くの場所で衰退していきます。
その中で、竹原・上原・加子母には鳳凰座、白雲座、明治座の芝居小屋が残り、今でも伝統文化を受け継ぐ地元の人々によって地歌舞伎が上演されています。
地歌舞伎は2日間にわたり、昼頃から夜10時近くまでのかなりの長丁場です。
役者は子どもから大ベテランまで、すべて地元の人。素朴ながら数ヶ月間をかけて練習に取り組んできた演技は玄人はだしです。
家族や友人の出演を見るため、開けっ放しの正面入口はひっきりなしに客が出入りします。桟敷席では芝居を見ながら飲んだり、食べたり。舞台めがけて笑い声やかけ声が飛び交い、どこか落ち着きのないがやがやした感じが地域密着の味わいです。もちろん遠来の人も大歓迎されます。
舞台峠のふもと、国道257号線近くにある芝居小屋です。
毎年、御厩野の日枝神社と熊野神社の祭礼に合わせて地元の人々による地歌舞伎の上演が行われます。「八十八夜の村芝居」とも「御厩野の芝居」とも呼ばれました。
戦争中に中断しましたが、戦後すぐに復活し、間口18.3m、奥行き24.5mの大型の芝居小屋も、昭和の大改築、平成10年(1998)の回り舞台を復活させる大改修が行われています
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竹原川の支流、輪川に沿って峠を越えた門和佐地区で上演される地歌舞伎です。明治23年創建の白雲座のコマ回し舞台は国の有形民俗文化財、2階建ての芝居小屋は国指定重要文化財です。
ふだんは静かな山里が、毎年11月2日、3日の白山神社祭礼に合わせた地歌舞伎で大賑わいになります。 |
中津川市加子母町の中心部の山ぎわにあります。明治27年創建の芝居小屋です。 回り舞台やスッポンと呼ばれる花道の穴があり、芝居では幽霊や妖怪がこの穴から登場します。
かつては映画や漫才、手品などさまざまな演芸が開催され、加子母の人々にとって娯楽の殿堂でした。戦後、いったんは衰退した地歌舞伎ですが、昭和48年に復活して、現在まで毎年秋に村人が出演する素朴な地歌舞伎が行われています。
飛騨と美濃の境に近い標高740mの山中にある大寺院の遺跡です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は文覚上人に命じて寺院建立の場所を探させていました。文覚上人は諸国をめぐるうちに舞台峠の池で龍に出会い、ここを霊地なりと定めて天台宗の大威徳寺を建立したと伝えられます。
南飛騨は源義平が兵士を募集した地でもあり、木曽義仲の根拠地だった木曽谷に接して、萩原には義仲の腹心・今井四郎兼平の子孫が勢力を持っているなど、鎌倉幕府にとって関心のある地方だったようです
鎌倉幕府将軍の寺だけあって、10haの境内に仁王堂、講堂、本堂、鐘楼、三重塔などの伽藍と僧院13坊が建ち並び、美濃や飛騨に多くの末寺を持っていました。
二代将軍頼家が参拝した際に、長旅の疲れをなぐさめるため国境の峠に舞台を設けて白拍子の舞を披露したことから、舞台峠の名がつけられたといわれます。
元亀元年(1570)甲斐の武田信玄と組んだ遠山直廉の軍勢が舞台峠を越えて侵攻、大威徳寺に籠もる三木次郎衛門(三木良頼の弟)と激しい戦いが起こります。遠山軍の火攻めにより大伽藍は焼き払われてしまいました。
その後、天正13年(1585)大地震によって跡形もなく崩壊、のちに小さな寺が再建されたようですが長く続かず山中に埋もれてしまいました。
中津川市加子母の小郷地区は舞台峠のふもと、標高700mの里です
長野県境の小秀山から流れる加子母川の扇状地に、トマトのハウスが整然と並んでいます。背景の山々は古くから伊勢神宮や姫路城などの名建築に材料を提供してきた東濃桧の美林です。舞台峠周辺からの小郷地区の眺めは、「美しい日本の村百選」にも選ばれています。
国道257号線沿いには産直市場があって、高原野菜や花が販売されています。
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「美しい日本の村百選」にも選ばれた小郷の中心部にひときわ目立つ杉の巨木があります。高さ30m、樹齢千数百年、国の天然記念物・小郷の大杉です。
その昔、源頼朝が文覚上人に地蔵堂を建立するよう命じ、以後、大杉地蔵尊と呼ばれ、願いを聞いてもらえる大願王地蔵として厚い信仰を集めてきました。
境内には文覚上人の墓があり、毎年旧暦7月9日、一度お参りすれば271年分お参りしたのと同じご利益があるという、九万九千日の縁日にナメクジが現れる奇祭・なめくじ祭りが行われます。 |
文覚上人は、源平合戦のとき、源頼朝に平家打倒の挙兵を勧め、鎌倉幕府の立役者になった高僧です。彼は若い頃、遠藤盛遠と名乗る武士でした。元祖ストーカーのような人物で、友人の妻・袈裟御前に横恋慕した挙句、平清盛から褒美に何をほしいかと聞かれて、袈裟御前と結婚させてほしいと答え、満座の嘲笑を買います。
恥をかかされたと思い込んだ盛遠は、清盛を逆恨みして平家打倒の執念を燃やすことになりました。相当性格に問題がありますね。
ついに相手の家に忍び込んだ盛遠は、夫をかばう袈裟御前を誤って切り殺してしまいます。悩んだ末に武士を捨て、出家した遠藤盛遠改め文覚上人、仏門に入って激しい修行をしても性格は相変わらずのようで、後白河法皇に寄進を強要して伊豆に配流され、その地で源頼朝に出会います。平家打倒と鎌倉幕府成立に暗躍した文覚上人ですが、頼朝の死後は厄介者扱いされて亡くなりました。 その文覚上人の墓が加子母の大杉地蔵尊の境内にあります。
袈裟御前は、実は盛遠が好きだったようで、毎年旧暦7月9日の夜、文覚上人の墓にナメクジに姿を変えた袈裟御前が現れます。数十匹ものナメクジの背中には、太刀を受けた切り傷があるとか。
豪華商品多数の「くじ」引き、ヌメヌメが好きな人には「とろろ汁サービス」、盆踊り大会や加子母太鼓、バザーなどのイベントがあって夜11時半頃、「文覚恋しや」と出てくるナメクジを見て奇祭なめくじ祭りはやっと終わります
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飛騨川の支流、白川の上流を加子母川と呼ばれています。さらに小秀山から流れる二ノ谷には乙女渓谷という名が付けられています。
一帯は「乙女渓谷の森」として整備され、入口にあるキャンプ場から、緑の渓谷に沿って新しいウッドデッキの遊歩道が延びています。小秀山登山道に続く遊歩道からは、高さ80mを一気に落下する夫婦滝をはじめ、岩に挟まれて水流が曲がったねじれ滝や、神秘的なブルーの乙女淵などの美しい眺めが楽しめます。
初夏にはシャクナゲが美しく咲きます。 |
乙女渓谷の遊歩道の終点、標高1200mの高地にある名瀑です。
小秀山の岩壁に高さ80mから一気に落下する雄滝と雌滝の2本の滝がかかっています。水量が多く迫力がある雄滝の滝壺周辺には水煙がたちこめて、夏でも肌寒いほどです。
キャンプ場から徒歩90分、さらに小秀山の登山道へ続いていますが、険しい岩場もあり登山の装備がないと進むことはできません。
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