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下呂市萩原町中呂地区にある飛騨きっての臨済宗妙心寺派の名刹です。
周囲に堀割を巡らせ、山門と別に都からの勅使が渡る橋や勅使門があり、皇室勅願所の証である菊の御紋が威光を放っています。
本堂や庫裏に見る中国宋朝様式の建築をはじめ、金森宗和の手による宗和流の名庭「萬歳洞」、雪舟画の達磨像など、みどころも多く、禅寺らしい落ち着いた雰囲気があります。
8:30〜16:30 200円 不定休 (0576)52−1353
飛騨で最も美しいと言われる名庭です。傾斜を生かした立体的な日本庭園で、巨石を段組みし、山水が奏琴の滝となって心字池に注いでいます。
初代高山藩主・金森長近の孫であった金森宗和は、出家して茶道に専念し、宗和流茶道の開祖となりました。宗和流は、優雅な気品が「姫宗和」と謳われて京都の公家に流行します。金森宗和は茶道のみならず築庭にも優れており、その代表作が禅昌寺の萬歳洞です。
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国の天然記念物・禅昌寺の大杉は、樹齢1200年、高さ40mの巨大なものです。
また、禅昌寺の伽藍の背景には、樹齢1000年以上の杉林が生い茂り、古禅林の風格が漂います。 |
平安時代、「往生要集」を著した恵心僧都源信が自作の観音菩薩像を祀る観音霊場として、天台宗系の密教寺院を開きました。一説に真乗寺といい、現在の御前山の山頂付近、焼堂ヶ原と呼ばれる場所とされますが定かではありません。
南北朝時代、北朝の後円融天皇が勅使を遣わして皇后の安産を祈願したところ無事に皇子が誕生したので、永和3年(1377)大雄山円通寺の名を賜り、のちに後奈良天皇によって天下十刹に列せられました。
時代は下り、戦国時代に南飛騨を中心に勢力を伸ばしていた武将・三木直頼は、名刹・円通寺が荒廃してしまったのを惜しみ、享禄元年(1527)京都・妙心寺の名僧・明叔禅師を招いて龍澤山禅昌寺として再興しました。明叔和尚の日記である「明叔録」は戦国時代の飛騨を知る貴重な記録です。
当時の禅昌寺は三木氏の城下であった萩原町桜洞地区にあったとされます。のちに、金森長近の飛騨侵攻により桜洞城は焼失し、禅昌寺も荒廃します。江戸時代に入り、金森家によって禅昌寺は円通寺の故地であった中呂に再建されました。
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