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下呂温泉は千年以上の歴史を持っています。
飛騨の山中にありながら古くから名湯として知られ、草津、有馬と並ぶ天下三名泉と称えられました。白鷺伝説に始まり、戦国時代に織田信長が湯治を楽しみ、林羅山が憧れた下呂温泉の歴史をたどってみましょう。
今から10万年前、下呂の東南にある湯ヶ峰火山が噴火しました。
湯ヶ峰は、いまでも火口壁が崩壊した荒々しい姿を見せています。火山から噴出した溶岩がゆっくり固まると、密度が細かく硬いガラス質の岩石になるため、縄文時代には矢じりなど石器の材料としてよく用いられました。
このガラス質の岩石は「下呂石」と呼ばれ、湯ヶ峰の麓から石器作りの工房跡が出土しています。下呂石を利用した石器は長野県や新潟県でも発見されており、古代の流通ルートがあったと考えられています。下呂温泉の高台にあるふるさと歴史館では、多くの出土品を見ることができます。
湯ヶ峰の火山活動は収束しますが、地下深くのマグマは冷え切らずに残り、飛騨川の地下水を温める熱源になりました。これが下呂温泉です。
温泉が発見されたのは平安時代の延喜年間(901〜923)といわれ、湯ヶ峰の山頂近くに湧き出ていました。今でも山中の湯の平では温泉跡とされる湯壺を見ることができ、湯治のために苦労して山道を登った、という伝承があります。
ところが鎌倉時代の文永2年(1265)、地震とともに突然止まり、飛騨川から噴出した、と伝えられています。(温泉寺所蔵「湯分之事」)
昔むかし、下呂温泉は今の飛騨川ではなしに、東にそびえる湯ヶ峰の山中に湧いとったんやさ。傷や病気に効くいいお湯やったもんで、ふもとの村人たちは大変ありがたがっておったんや。ところがある日、大地震が起きたかと思うと、湯ヶ峰の温泉は突然止まってまった。温泉を失った村人たちは嘆き悲しんだそうやさ。
しばらく後、ある村人が川原の水溜りに傷ついた一羽の白鷺が休んでおるのを見たんやさ。あくる日も、その次の日も、同じ場所で白鷺が休んどるもんで、不思議なこっちゃさなぁって、様子を見に行った村人は、川から湯気が立って、温泉が湧いとるのに気づいたんやさ。飛び立った白鷺について山の方へ向かった村人は、松の木のそばにござった薬師如来像を見つけたんやと。
ははぁ、これは温泉を失くして悲しんだ人々を哀れんで、薬師如来が川原の温泉を教えてくれたんやなぁって、村人たちは噂しあい、白鷺が飛んでいった中根山の中腹に薬師如来像を祀る温泉寺を建立したんやと。
下呂温泉で有名な下呂は珍しい地名ですが、市内には下呂温泉の北に中呂、その北に上呂もあります。 もともと本家は下呂温泉から15km北に位置する上呂地区。奈良時代に定められた官道・東山道飛騨支路の駅があり、「伴有駅(とまりえき)」と呼ばれていました。 東山道飛騨支路とは、現在の岐阜市から分岐して飛騨に入り、位山峠を越えて飛騨国府に至る当時の幹線ルートです。駅には馬が置かれ、役人が移動するときに駅から駅へ、馬を乗り継ぐ「駅伝」方式で旅をしていました。奈良時代には珍しい「浅水橋」が架けられた伴有駅は、飛騨川をわたる重要な場所でした。
ところで、南の菅田駅から伴有駅の間にはいくつも峠があり、距離も70km近くあったので、中間駅として「下留駅」が設けられました。時代がたつうち、「上伴有駅(かみとまり)」と「下留駅(しもとまり)」は「上留」「下留」と書かれるようになり、音読みして「じょうる」「げる」そして「じょうろ」「げろ」と変化しました。 ちなみに、下呂という大字名はありませんが、上呂には「上上呂」「下上呂」があり、「中上呂」というバス停もあります。
室町時代、応仁の乱(1464〜77)を避けて全国を行脚した京都五山の詩僧・萬里集九は、美濃国鵜沼に仮居を構え、延徳元年(1491)と同3年の2回下呂温泉に遊びました。彼は東国旅行記「梅花無尽蔵」の中で下呂温泉を「わが国諸州に多くの温泉がある。その中でも草津、有馬、湯島(下呂)が最も優れている」と記しています。
当時の京都五山の禅僧はトップレベルの知識人であったことから、その日記や漢詩はのちに江戸時代の儒学の基になりました。徳川家康から4代の将軍に仕えた江戸幕府の儒学者・林羅山は萬里集九を敬慕していたこともあり、有馬温泉旅行記「林羅山詩文集巻三西南日録」の中で「我國諸州多有温泉。其最著者、攝津之有馬、上州之草津、飛州之湯島(下呂)、是三處也」と萬里集九を引用しています。
これが「天下三名泉」の由来です。下呂温泉街の「白鷺の湯」の傍らには萬里集九を記念する「天下三名泉発祥の碑」があり、阿多野谷にかかるしらさぎ橋の上には林羅山像が立っています。
戦国時代の天下統一の覇者・織田信長は、温泉好きの武田信玄や豊臣秀吉と違い、温泉に関するエピソードがほとんどありません。唯一の湯治記録らしいものが、岐阜県関市の旧家に伝わる「羽渕家家系図」で、天正6年(1578)春に「信長公岐阜より飛騨へ湯治の節、関郷を通られ当家で休憩。お供の前田利家、森長可、羽柴秀吉などのお歴々も同席され、お茶を差し上げたところご機嫌斜めならず」と記されています。
当時は、南飛騨を本拠地にする三木自綱が織田信長と同盟を結んでほぼ飛騨全域を手中に収めようとしている時期でもあり、織田信長の飛騨湯治は安全な下呂温泉だった可能性が高いと思われます。
織田信長は家臣たちと飛騨川の露天風呂に浸かって、周囲の山々を眺めて楽しんだのかもしれません。
江戸時代に高山陣屋に提出された文書によると、「文政・天保年間(1818〜44)にかけて繁盛の折には、年間およそ3万人の湯治客があった。冬と春は少なく、4月から9月にかけてが多い」とあり、温泉役(温泉税)は「湯之島500文、平湯150文、蒲田150文」とされて繁盛ぶりが伺えます。
当時の下呂温泉は飛騨川の河原に湧く源泉に木枠をはめ込んだ「湯壺」と呼ばれる露天風呂で、湯治宿の風呂は主人が桶に汲んだ温泉を担いで運び、五右衛門風呂を焚いて沸かしていました。
近隣の農民たちは正月の湯に始まり、寒湯治、花湯治、野上がり、丑湯治、秋湯治など四季を通して保養のために温泉湯治を楽しみましたが、霊験あらたかな下呂温泉の効能にすがろうと遠方からも多くの湯治客が訪れていました。
温泉寺には病気治癒を願って奉納された江戸時代の絵馬が掲げられています。
中でも、天保7年(1836)伊勢国桑名の住人・直七は、病気治療のため駕籠に乗って下呂温泉へやってきました。湯治ですっかり元気になった帰りには、喜びいさんで歩いていく様子を描いた絵馬を奉納しました。あまりの回復ぶりに駕籠かきが驚くほど効果があったようです。
下呂温泉は源泉が飛騨川の河原にあったことから、江戸時代より明治時代まで幾度とない洪水で湯壺が埋没したり流出する被害を受けてきました。特に明治29年に起こった大洪水では源泉が土砂に埋没して十数年に渡って復旧せず、温泉をなくした落胆の日々が続きました。
大正時代に入り、温泉復旧の動きが本格化します。当初は電力不足から試行錯誤したものの、薬師湯合資会社と下呂温泉合資会社の2社による共同浴場の経営が始まります。やがて、外部資本の導入により安定した温泉源のボーリングに成功、湯之島館と水明館が内湯旅館として開業したことから、他の湯治宿も内湯旅館を整備しました。
折しも、昭和5年(1930)に高山線が下呂駅まで開通するのに合わせ、当時としては画期的な温泉リゾート都市計画が実施されました。「日本に名所がまたひとつ」のキャッチコピーで売り出した下呂温泉は日本の有名温泉地に発展していきます。
戦争中には温泉客が遠のき、下呂温泉には戦傷者が療養するための陸軍病院下呂温泉療養所が置かれ、現在の県立下呂温泉病院の前身になりました。
戦後の高度経済成長が始まると、下呂温泉も空前の旅行ブームに乗って大型旅館が林立し、温泉源の乱開発が危惧されるようになりました。そこで、昭和49年(1974)に温泉の集中管理による温泉資源保護のシステムが全国に先駆けてスタートしました。
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湯之島温泉街 |
花火ミュージカル |
冬のイルミネーション |
バブル景気の崩壊と共に、日本人の旅行に対する考え方も大きく変わってきました。高度経済成長時代の、団体旅行で大型旅館に泊まって宴会をするスタイルから、個人や小グループ旅行で、「自分らしい個性的な旅をしたい」「暮らすように旅をしたい」ニーズが高まっています。
下呂温泉はリピーターとして帰ってきたくなる温泉地をめざして、魅力ある温泉地づくりを行うとともに、下呂温泉を訪れるすべての人をおもてなしの心で迎える「ホスピタリティあふれる街」をめざして、全国に先駆けてホスピタリティ都市を宣言しました。
観光経済新聞「プロが選ぶ温泉100選」 第5位
日本経済新聞「温泉旅行を親に贈るなら」第10位
その他、リクルート社の「行ってみたい温泉地」アンケートなどでも上位にあります。
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