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下呂温泉の北、飛騨川の谷間に開けた下呂市萩原町は飛騨街道の城下町、宿場町として、南飛騨の中心地でした。
天下十刹に数えられる禅昌寺をはじめ、久津八幡宮などの歴史ある寺社が点在しています。 |
中呂地区にある飛騨きっての臨済宗妙心寺派の名刹です。
周囲に堀割を巡らせ、山門と別に都からの勅使が渡る橋や勅使門があり、菊の御紋が威光を放っています。本堂や庫裏に見る中国宋朝様式の建築をはじめ、金森宗和の名庭「萬歳洞」、雪舟画の達磨像など、みどころも多く、禅寺らしい落ち着いた雰囲気があります。
8:30〜16:30 200円 不定休 (0576)52−1353
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萩原の市街地の中心部にある平城跡で、現在は諏訪神社の境内になっています。 戦国時代、竹原郷の代官から自立して武将となった三木直頼は、南飛騨に勢力を伸ばして天文年間(1532〜55)に現在の萩原小学校裏手の高台に桜洞城を築き、城下に禅昌寺(現在は中呂にある)や景劉院などの寺社を創建しました。その後、天正7年(1579)三木自綱は高山に松倉城を築いて本拠地を移しますが、高山の厳しい寒さを避けて、冬には萩原に戻ってきたため、桜洞城は「冬城」とも呼ばれました。
天正13年(1585)金森長近が三木自綱を破って飛騨を平定すると、桜洞城も徹底的に打ち壊されました。現在は城跡をJR高山線が分断し、残りも山林や田畑になって原型を留めていません。
金森長近は美濃上有知の武将・佐藤秀方に命じて萩原に新しく諏訪城を築きました。
築城にあたっては、元からあった諏訪神社を移転させ、三木氏縁の寺社を壊して城の建材に充てるなど強引なやり方が地元の反感を買ったことが「諏訪の白蛇と梅の枝」などの民話に伺えます。秀方の子・方政は関ヶ原合戦で西軍に付き、美濃の領地を没収され諏訪城に居住しますが、大坂夏の陣でも豊臣方に付いて敗死しました。これを民話では「天罰が下った」と評されています。
諏訪城は徳川方の金森長近が接収し、城下町の飛騨街道・萩原宿を整備しました。府と称される飛騨高山に対して、萩原は「小府」と呼ばれ、南飛騨・益田地方の中心として栄えました。やがて諏訪城は江戸幕府の「一国一城令」によって廃城となり、金森藩主の旅館に変わりますが、それも元禄8年(1695)飛騨が天領になったときに高山城と共に取り壊しになり、諏訪神社が還座しました。
現在は本丸が諏訪神社の境内になり、二之丸は萩原南中学校になっています。本丸の周囲には空堀や石垣がそのまま保存され、矢倉や大手道など城跡の雰囲気がよく残っています。
萩原の本町通りは飛騨街道の宿場町の雰囲気を残したエリアで、下呂市唯一の街並み景観保存地区になっています。酒蔵の天領酒造、町家造りの甘味処かつぶん、明治時代の土蔵造り銀行建築を伝える十六館などがあり、下呂温泉から足を延ばして街並み散策を楽しむ観光客の姿も増えてきました。
十六館の裏の路地は「蔵通り」といい、用水路に沿って土蔵が並んでいます。地元の生活の道である路地を抜けると、搦め手の山道を登って城跡の諏訪神社に行くことができ、ちょっとした探検気分が味わえます。
飛騨街道萩原宿で町家造りが目を引く天領酒造は、江戸時代・延宝8年創業の老舗で、全国新酒鑑評会で連続して金賞を受賞する飛騨を代表する酒蔵です。
酒米のヒダホマレと飛騨の山々が生んだ伏流水を用いた酒造りが自慢で、予約をすれば年間を通して酒蔵見学と試飲ができます。伏流水の深井戸は「酒蔵の深井戸水」として開放され、水を汲むこともできます。
酒蔵見学 無料 平日・要予約
萩原宿の街並みで開かれる天領朝市が人気で、地元で採れた新鮮な野菜や切花、萩原の特産品が揃います。地元の益田清風高校・観光コース専攻の高校生たちや、萩原に移住したハコボさんの南米エクアドル雑貨など個性あふれる出店が楽しみです。蔵通りでは水曜日の晩に夜市も開かれます。
6月中旬〜11月中旬の毎週金曜日9:30〜正午 (0576)52−2500
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国道41号線に面した久津八幡宮は、飛騨二之宮、南飛騨の総鎮守社として尊敬されてきました。
境内の2本の大杉は樹高が30mと35m、周囲がそれぞれ10m近くもあります。
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社伝によれば、仁徳天皇の時代に、飛騨の両面宿儺征伐を命じられた難波根子武振熊命が応神天皇を祀って戦勝を祈願したことに始まります。時代が下って平安時代末期には、平治の乱で敗れた源義平(源頼朝の兄)が兵士を募集するために南飛騨に入り、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を勧請して源氏の氏神としました。
室町時代の応永19年(1412)に造営された本殿は、600年間にわたって大きな改装はされず、当時流行した宋朝様式を今に残しています。拝殿は天正9年(1581)飛騨の武将三木自綱によって寄進され、本殿の「鳴いた鶯」の彫刻と共に、飛騨の匠の手による彫刻「水を呼ぶ鯉」の伝説が残っています。
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南飛騨萩原の上呂にある久津八幡神社には、飛騨の匠が作った彫刻があります。
本殿に彫られたウグイスの彫刻は、美しい声で鳴いていました。ひと休みしようと久津八幡に立ち寄った旅人が昼寝を邪魔されて怒り、彫刻に石を投げたところ、鳴くのをやめてしまったといいます。 |
久津八幡宮の拝殿に彫られた鯉は、生き生きしているあまり、水が恋しくて飛騨川の流れを神社の方へ呼び寄せました。押し寄せる洪水に恐れをなした村人たちは、高山へ出向いて彫刻を作った飛騨の匠・和田さまに相談します。村人の話を聞いた和田さまは白木で矢を作ると、これを拝殿に取り付けるよう言いました。
鯉の彫刻に向けて矢をつけると、不思議に川の水は引いてゆきました。
久津八幡宮の下、飛騨川の河川敷に作られた広さ7万uの大きな市民公園です。
広い芝生広場を囲んで桜並木があり、春には一面みごとに咲き誇ります。サッカーグラウンド、テニスコート、MTBコースなどがある市民の憩いの場です。飛騨川対岸の朝霧スポーツ公園とは、歩道橋で結ばれています。
下呂温泉で有名な下呂は珍しい地名ですが、市内には下呂温泉の北に中呂、その北に上呂もあります。
もともと本家は下呂温泉から15km北に位置する上呂地区。奈良時代に定められた官道・東山道飛騨支路の駅があり、「伴有駅(とまりえき)」と呼ばれていました。
東山道飛騨支路とは、現在の岐阜市から分岐して飛騨に入り、位山峠を越えて飛騨国府に至る当時の幹線ルートです。駅には馬が置かれ、役人が移動するときに駅から駅へ、馬を乗り継ぐ「駅伝」方式で旅をしていました。奈良時代には珍しい「浅水橋」が架けられた伴有駅は、飛騨川をわたる重要な場所でした。
古代の催馬楽曲に「阿佐牟豆能波斯登登呂(あさむつのはしのととろととろに)」と歌われた場所は浅水橋だとされます。やがて橋がなくなり、越前国の情景を詠んだものだと考えられましたが、江戸時代「飛州志」を記した飛騨代官・長谷川忠崇が地中から発見された橋桁の遺構を見て「あさんづの橋」を考証しました。
ところで、南の菅田駅から伴有駅の間にはいくつも峠があり、距離も70km近くあったので、中間駅として「下留駅」が設けられました。時代がたつうち、「上伴有駅(かみとまり)」と「下留駅(しもとまり)」は「上留」「下留」と書かれるようになり、音読みして「じょうる」「げる」そして「じょうろ」「げろ」と変化しました。
ちなみに、下呂という大字名はありませんが、上呂には「上上呂」「下上呂」があり、「中上呂」というバス停もあります。
むかし、飛騨川をわたる「浅水橋」がかかる上呂橋場の北、益田街道沿いに「さいらの」という寂しい原野が広がっていました。いつの頃からか、「お美津ギツネ」と呼ばれる飛騨街道随一の親分キツネが住み着き、旅人を化かしたと伝わります。
飛騨川と橋場の街並みを見下ろす高台に、お美津ギツネを中心に、子分ギツネたちの碑が取り囲み、商売繁盛の神様として信仰を集めています。
その昔、飛騨街道の上呂橋場と尾崎橋場には宿屋や飯屋が軒を連ねて、そりゃ賑わっとったんやって。なかでも、宿場で働くお美津という娘はきれいと評判で、近在の衆の人気を集めとった。
上呂橋場の北には、「さいらの」という寂しい原っぱが広がっておって、いつの頃からか、飛騨街道きっての親分ギツネが棲みついておった。
このキツネは人間の女に化けるのが得意でな、美しいお美津に化けては、鼻の下を長くした若者たちをたぶらかした。それで、さいらのの「お美津ギツネ」と呼ばれるほど有名になったんやと。
そのお美津ギツネには、子分の女ギツネとの間にかわいい子ギツネもおったんやが、ある日、子ギツネが遊んどる間に、猟師の勘八に捕まえられてまったから大変や。 親分の一大事に、飛騨各地から子分たちが駆けつけて、高山の浄見寺野で子ギツネをどうやって助けるか相談をした。どのキツネも口を尖らかいて議論したけど、なかなか名案も出ず、夜明けまでかかったんやと。
ある晩おそく、勘八の家に坊さんが訪ねてきたんやと。坊さんは、生け捕りにした子ギツネが見たいっていうもんで、その通りにすると、子ギツネを抱いた坊さんはねんごろに念仏を唱え始めた。
勘八も神妙に念仏を聞いておると、いろりの火が消え、気づいた頃には坊さんもキツネもおらなんだ。
下呂市萩原町の北部、四美の里に「美容と健康のテーマパーク」があります。
観光旅行としての側面が大きな日本の温泉ですが、ここ「南飛騨国際健康保養地」は、ヨーロッパにあるような健康増進のための温泉リゾートをめざしています。
面積およそ250ヘクタール(東京ディズニーランドの約5倍)の広大な敷地には、古代米の田んぼやそば畑、薬草農園といった里地、里山の風景が残り、古民家の体験ハウスをつないで散策道が伸びています。
その中心は飛騨川温泉「しみずの湯」と「南ひだ健康道場」。
健康道場で無料の「脳年齢、健康チェック」を受けられるほか、心と体のバランスを整えて自然治癒力を強化し、病気を予防する健康法などの体験講座があります。
体験講座は、ヨガ、太極拳、そば打ち、ヘルシー料理、専門の自然ガイドによる里山トレッキングなど、どれもリーズナブルな料金で受講できます。
9時〜17時 (0576)55−0010
泉質:アルカリ性単純温泉 泉温:39℃
木の香りいっぱいの内湯「深谷の湯」と「四美谷の湯」や中国広西壮族自治区から運ばれた巨石「活翔石」が鎮座する露天風呂、地元産薬草の薬草湯、無料で使える足湯があります。
水着のレンタルもあるプールも温泉で、水流に逆らって歩行浴することで、カロリー燃焼を促進します。またジャグジーや水中トレーニングの設備もあります。インストラクターによる無料アクアエクササイズの時間もあり。
ヨガやそば打ちなどの教室が開かれている南ひだ健康道場が近くにあります。
10時〜21:30 500円 休:火 (0576)56−4326
南飛騨国際健康保養地の背景となっている四美の森は、深谷の森、源内の森、元気創造の森の3つのエリアに、ゆるやかな丘陵地を歩く禅の道、裸足の道から、御嶽山を望む標高950mの岳見の館への健脚ルートまで6つの遊歩道があります。
四美の森は、平成18年に全国植樹祭が開催された大きな芝生公園・皇樹の杜を中心に、自然の姿をそのまま残す広葉樹林や、300年の森を目指して地道な管理がされている人工林などさまざまな表情を持っています。
飛騨萩原は樹齢100年を超す桜の大樹が多い町です。特に、永養寺のしだれ桜を親にもつ兄弟桜が点在し、花のシャワーがふりそそぐ絶景がいくつも見られます。
桜の時期にはそれぞれライトアップが行われ、桜をめぐる「飛騨萩原桜めぐり」のルートが作られています。
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位山、川上岳、船山を水源とする飛騨川の支流で、南飛騨国際健康保養地に近い下り川公園で飛騨川と合流します。
山之口地区には澄み切った水が流れ込む天然プールがあり、「清流広場」と名付けられています。夏には水泳場としてにぎわいます。
断崖の峡谷になった下り川公園には、山之口川へ下りる遊歩道があって、新緑や紅葉が映える風景は見事です。
下呂市萩原町の北部、船山と位山の間にある標高1084mの峠です。
この険しい峠越えの道は、かつての東山道飛騨支路でした。江戸時代初めに金森長近が飛騨川沿いに河内路を開くまで、飛騨と中央を結ぶメインルートだったのです。奈良・平安時代に、都へと召し出された飛騨の匠が、家族や故郷に別れの涙を流して越えた悲劇の峠でもありました。
かつての街道は、現在も「位山官道」として残り、石畳の道が整備されています。
位山峠周辺は岐阜大学位山演習林として豊かな自然林が残されており、見事なブナやトチノキなどの原生林を周回する遊歩道「光と風の道」があり、春には湿原に水芭蕉の花が見られます。
昔、カジヤ谷のほとりに、平八さという男がおって、山椒の根を灰で煮つめて川へ流し、浮いてきた魚を取る「根もみ漁」が大好きやった。 あるとき、平八さは若い衆と根もみを鍋にしこんでおった。そこへ疲れた様子の坊さまが訪ねてござったんやと。平八さは坊さまを家へ入れ、ダンゴをふるまったそうな。そしたら、なぜか温かいダンゴには目もくれずに、冷えたやつばかり20個もするすると飲み込んでまったんやって。
やがて、坊さまは山椒の匂いに顔をしかめて、
「悪いことは言わん、いらん殺生はやめなされ」
と諭したので、平八さも思わず「分かったぜな。根もみはやらんさな」と言って鍋を下ろしたそうな。坊さまは安心したように、お礼を言って闇の中へ消えていったと。 そのとき、何かが谷にどぶんと飛び込んだ音がしたんやって。
平八さは坊さまと約束したもんの、やっぱり朝になると若い衆をひきつれて、根もみ漁に出かけていった。深い淵のあたまから根を流しこんでやると、人間ほどもある、とてつもない大きなイワナが浮かんできた。
平八さたちが、でっかいイワナの腹を切り開いて見たら、なんと20個のダンゴが出てきたんやと。 「こりゃ、ゆうべのダンゴや。坊さまの食べたダンゴも20個やったぞ」と、ぶるぶるふるえあがったそうな。
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