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乗鞍岳の開山は、坂上田村麻呂が飛騨平定の折に登山したと伝えられますが、伝説にすぎません。
木曽御嶽山や加賀白山と同じように、山岳に信仰や修行の場を求めた僧侶たちによって開山されたと思われます。山麓では、乗鞍岳全体を御神体としてあおぎ、権現池など山上の湖は農業に欠かせない水の神として、雨乞いの場になっていました。
乗鞍岳は以前は日岳と呼ばれ、丹生川の各神社では、神社名に「日抱宮(日岳宮の誤りか)」と冠していました。これは原始時代、噴火を見た人々が火岳と恐れたものか、山頂から昇る太陽を神として崇めたものといわれます。
信州側でも同様に、一番早く朝日があたる山として朝日岳と呼び、木曽義仲が旭将軍と自称したのも、乗鞍岳を崇拝していたことによります。
その後、平安時代の古今和歌集に詠まれた「位山」、瑞雲がたなびいたと記録された「愛宝山」などの名で呼ばれます。位山は現在では飛騨中央部の山ですが、平安時代には信飛国境の山とされており乗鞍岳を指していました。また、愛宝山の名は安房峠や青屋川、飛騨古川の安峰山などに名残を留めています。 やがて、江戸時代には馬の鞍に似た峰の形から、乗鞍岳の名が定着しました。
江戸時代には、円空上人や木喰上人が山籠りして修行を重ねた信仰登山の山でしたが、明治になると一般の登山もさかんになり、美濃生まれの修験者・無尽秀全と、彼に師事した朝日村の上牧太郎之助や丹生川村の板殿正太郎ら地元の有志によって多くの登山道が開拓されます。
ことに板殿正太郎は私財を登山道や山小屋建設、遭難者の救助活動に費やし「板殿仙人」と呼ばれました。
大正3年(1914)早稲田大学を出た青年が上宝村にやってきました。奥飛騨の先覚者・篠原無然です。北アルプスの山々に魅せられた無然は、平湯分校の代用教員を勤める傍ら、若者を集めて夜学を開くなど、社会教育に力を注ぎました。
奥飛騨を日本の山岳公園にしよう、と考えた無然は、青年団や女子会の若者たちを率いて山に登り、登山道を切り開きました。乗鞍岳の土俵ヶ原、桔梗ヶ原、富士見岳、里見岳などの名称も無然が付けたものだといわれています。
無然は各地で講演に頼まれたり、郷土の誇りや希望を歌にして、飛騨中の人々の敬慕を集めました。また、当時、信州の紡績工場へ出稼ぎに行った女工たちに関心を持ち、その待遇改善に尽力しました。しかし、彼をねたむ者によって心無い噂を立てられ、後ろ髪を引かれるように飛騨を去ることになります。
やがて人に誘われて、数年間を東京や大阪で社会事業に活躍しますが、飛騨の人々を忘れられません。大正13年(1924)11月、彼を支持する若者たちに請われて東京から平湯へ帰る途中、無然は吹雪の安房峠で遭難死しました。36歳でした。
ああ偉なるかな飛騨の山 ああ美なるかな飛騨の渓 ああ清きかな飛騨の水
「飛騨青年の叫び」篠原無然
乗鞍岳の歴史を一変させたのは、昭和16年(1941)軍事目的に開発された自動車道路です。航空機エンジンの高地実験場を造るため陸軍によって建設されました。
軍から協力を求められた地元・高山市と濃飛乗合自動車株式会社は、平和になったら観光地として脚光を浴びるだろうと考え、資金を投じて道路幅を広げておきました。
結局、航空機エンジン実験の成果が出ないまま終戦を迎えたものの、地元の読みが当たって、戦後まもない昭和23年(1948)には乗鞍登山バスが運行されるなど、観光地・飛騨のさきがけとなりました。
その後、道路改良されて有料道路・乗鞍スカイラインとしてオープンすると、信州側のエコーラインと共に観光客のマイカーが押し寄せ、シーズン中には駐車場に入りきれない車で大渋滞が起きるなど、環境問題も抱えました。誰でも行ける手軽な観光地になると、山岳としての魅力は薄れ、古い登山道も消えてゆきます。
平成15年(2002)、有料道路の償還期限が切れた乗鞍スカイラインは無料化と同時にマイカー乗り入れ規制を実施して、現在はシャトルバスや観光バス、タクシーのみの受け入れに変わりました。
その結果、乗鞍岳本来の魅力が見直され、バスで上がって登山道を下りる、という形でトレッキングルートが復活しています。また、山頂の観光地化によって皮肉にも開発から取り残された、大森林に滝と池が点在する秘境・五色ヶ原にも、入山人数を制限したガイド付きトレッキングコースがつくられました。
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