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古代、信州安曇野を開拓した海洋民が、穂高岳を水源として崇拝し、ここを「神垣内」と呼びました。不思議なことに、穂高神社の祭神・穂高見命は海の神様です。
その奥宮とされる奥上高地・明神池では、「御船神事」が執り行われるなど、海の記憶を現在に伝えています。
上高地一帯は木こりや猟師が仕事の場としていましたが、飛騨と信州を結ぶ峠道としても古くから利用され、鎌倉時代には北陸諸国と関東をつなぐ鎌倉街道は、新穂高の中尾高原から中尾峠を越え、焼岳の中腹を巻いて信州に出ました。南北朝時代には南朝の慶長天皇や宗良親王が信州と越中の行き来に利用したと伝わっています。
戦国時代には、金森長近の軍勢に追われた三木秀綱と奥方衆が、中尾峠を越えて敗走しますが、信州の山中で土民の手にかかって殺害されました。
江戸時代、焼岳の噴火などで閉鎖されていた中尾峠が飛騨新道として復興します。
この街道は飛騨から中尾峠を越えて上高地温泉に泊まり、明神から徳本峠を越えて島々宿に出るものでした。
飛騨の名峰・笠ヶ岳を再興し、その頂上で天を突く槍ヶ岳の勇姿に感動した僧・播隆は、上高地から槍ヶ岳を開山し、諸国を行脚して集めた浄財によって危険な岩場に鉄鎖を設置するなど、一般の人々に信仰登山を広めました。
明治時代に入り、日本にやってきた外国人は積極的に国内各地を歩きました。
中でも登山趣味のあった英国人、ウィリアム・ガウランドは明治10年、槍ヶ岳を「JAPAN ALPS」と名付けて雑誌に発表しました。また、ウォルター・ウェストンは「日本アルプスの登山と探検」を著して、世界に日本アルプスを紹介しました。こうした外国人に刺激されて、日本人の北アルプス登山も盛んになります。
徳本峠を越えて上高地を訪れる登山家を、上條嘉門次や内野常太郎といった猟師たちが案内し、彼らは上高地近代登山史を飾る名ガイドとして名を残しました。
大正5年(1915)焼岳が大噴火して、大正池の景観をつくります。
昭和2年に芥川龍之介の名作「河童」が発表され、鉄道省が募集した日本八景では上高地が第一位を取るなど、一般の人々にも上高地の美しさは知られていきました。
昭和9年、北アルプス一帯は中部山岳国立公園に指定され、バス道路が開通すると共に、上高地牧場は閉鎖されました。観光地・上高地の始まりです。
戦争中に束の間の静けさが戻った上高地も、戦後の復興と共に大衆観光地として年間数十万人もの人が訪れる場所になりました。
ツアーの観光バスで押しかけた観光客は、都会の格好のまま河童橋の周辺で写真を撮って、手軽なお土産を買い、大自然の息吹を感じることもなく慌しく去っていきます。
また、マイカーの普及で、上高地の道路は駐車場待ちの車が溢れるようになり、段階的にマイカー規制が実施されました。現在は全面交通規制があります。
明治42年から植物採取が禁止された上高地では、江戸時代から続く森林伐採で荒れていた山にカラマツ植林が行われ、鳥獣保護や岩魚漁の禁止など、自然環境保護の先進地でもありました。
マナーを守って大自然を感じる歩く旅をしましょう。上高地の自然と歴史を知り、大自然の息吹を感じることが、この美しい上高地を後世に伝えることにつながるでしょう。
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