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飛騨高山や古川の街並みには古い町家造りの商家が多く残っています。
表の通りに面した表部分は短く、玄関から中へ入ると奥に細長い造りで「鰻の寝床」と呼ばれます。
天領で武家の影響が少なかった高山では、旦那衆と呼ばれる豪商たちが経済力を持ち、町の自治を行いました。しかし、大名貸しをしている旦那衆も、表向きは高山陣屋の威光を立て、郡代の面子をつぶすようなことはしませんでした。
町家造りは前側の屋根の高さが約4mと大変低く、大屋根の軒先が道路脇の水路にまで伸びていましたが、高山陣屋より高い建物を造らないためでした。また、町家の表をわざと質素にする一方で、内部の座敷には贅を凝らしました。
高山近郊の農村の次男・三男だった男性が、農産物や材木の商い、酒造業から身を起こして成功したのが旦那衆です。そのため、屋号は出身地から取られました。
明治、大正を通じて大地主や企業家、鉱山経営者としても影響力を持ちましたが、第二次世界大戦後の民主化や地主解体によって姿を消しました。それでも、旦那衆と呼ばれて一目置かれる存在になっています。
大正・昭和以降、道路の拡幅や街並みの近代化によって古い商家は次々に姿を消していきましたが、三町を中心とする高山の古い街並みは幹線道路から外れていたことが幸いして、奇跡的に残りました。なかでも、上三之町の街並みは、ほぼ江戸時代のままで、低い軒先などの特徴を見ることができます。
現在では、伝統的な街並み保存地区に指定されている他、家屋を改修・新築する場合でも、雰囲気に溶け込んだ建物が造られ、落ち着いた景観が維持されています。
古い街並みの北に位置する大新町景観保護地域には、飛騨高山の町家造りを代表する「日下部民芸館」と「吉島家住宅」が並んでいます。この2軒は、三町の町家よりもずっと大きく、豪華な造りで見ごたえがあります。
これは、大新町一帯が明治時代の大火で焼失し、再建された明治建築だからです。
当時はまだ江戸時代の建築技術が生きていて、かつ、高山陣屋の幕府権力に遠慮して質素な建物にする必要はもうなかったので、町家建築の粋を十分に発揮して作られたことによります。
ここでは、日下部民芸館を例に町家の構造を見てみましょう。
表の道路に面した部屋はみせといい、商品を陳列する部屋ですが、明治以降に商店をやめると格子がつけられました。この格子が持つ渋い色調と縦横の直線美が高山の街並みの特徴になりました。
玄関から中へ入ると、土間に屋根裏まで吹き抜けになった広い空間が目を引きます。ここが商売の場です。囲炉裏のある勘定場の後ろに、主人の部屋や仏間、座敷などがあって生活の場になっていました。
座敷に上がると客間、主人の間、仏間があります。仏壇も大きくて立派です。
2階も座敷がありますが、屋根の中央部分が高いので、部屋が段違いになっています。
店から土間が奥に伸び、土足のまま裏まで行くことができます。奥には中庭があり井戸や台所があります。
中庭に面して土蔵があります。温度湿度が一定で、火災に強い土蔵には大切な家財道具が収めらました。古い民家では、調度品や生活用具は土蔵に収納しておき、部屋には物が何もないのが普通でした。
また、裏道に面して連続する土蔵の列は火災の際に延焼を食い止める防火帯の役割をしていました。
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