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慶応4年(1868)、明治維新が起こると郡代内膳正功は江戸へ去り、飛騨は新政府の東山道鎮撫使・竹沢寛三郎に接収されました。竹沢寛三郎は五箇条の御誓文や年貢半減などを説いて人々の期待を集めますが、間もなく飛騨を去りました。
その後、高山県初代知事に任命されたのが梅村速水、水戸出身でまだ27歳の青年でした。新時代の理想に燃える梅村知事は次々と新政策を打ち出します。
堤防工事や新田開発、孤児の保護などは善政と言われましたが、一方で林業を生業にする山村に幕府が支給していた山方米を廃止し、商業を商法局による専売制にして旦那衆から経済活動を奪いました。とりわけ、知事直属の治安部隊・郷兵隊は、ことある毎に高山や古川の町火消と縄張り争いを繰り広げます。
梅村知事は反対者への処罰を厳しく行ったため、ついに人々の不満が爆発し、梅村騒動が起こります。明治2年(1869)出張先の京都で騒動を聞いた梅村知事は、急いで飛騨へ引き返したものの、萩原で農民一揆の暴徒に襲われ、美濃苗木藩へ逃亡しました。まだ戊辰戦争の続く動乱期で、飛騨で無用の騒動が起きるのを嫌った新政府は梅村知事を解任して投獄し、翌年、東京の刑務所の中で亡くなりました。
高山県は明治4年(1871)廃止されて松本に県庁を置く筑摩県に合併し、さらに9年(1876)筑摩県の廃止に伴って岐阜県に編入されました。明治時代の岐阜県議会では山岳地帯の治山事業を求める飛騨地方と、輪中地帯の治水事業優先を主張する美濃地方が対立し、皮肉にも「飛山濃水」という岐阜県を象徴するキャッチフレーズが生まれたとも言われます。
明治時代、外貨獲得のための産業振興が図られる中で、発展していったのが製糸業でした。生糸は、その原料の蚕から技術まで、全て国内で自給できるためです。その中心地は長野県諏訪地方にあって、大規模な製糸工場が次々に作られました。明治中頃から飛騨の貧しい農村の娘たちが長野県の製糸工場へ出稼ぎに行くようになりました。現金収入のない家計を助けるために12歳から工女の出稼ぎに行きました。
1日14時間ものきつい労働は「工場づとめは監獄づとめ、金の鎖がないばかり」と嘆かれるもので、過労で倒れる者が続出しました。
映画化もされて有名になった女工哀史は、雪に閉ざされた冬の野麦峠を越えて長野県へ向かった工女たちの姿を描いています。工場で病気に倒れ、迎えに来た兄の背中で「ああ、飛騨が見える」と言って息絶えた政井みねの像が乗鞍岳に見守られた野麦峠の頂上に立っています。
一方、かつて糸引き工女だったお婆さんたちには、息苦しい山村を出て製糸工場で働いたことを楽しく思い出す人も少なくありません。古川で1月15日の晩に行われる三寺参りは、正月に帰省した工女たちが着飾って出かけたので、「嫁を見立ての三寺参り」と呼ばれて盛大になっていった、ともいわれています。
さて、江戸中期から昭和中期にかけて、養蚕業は飛騨を支える一大産業でした。
江戸中期までの農民の暮らしは大変貧しく、一般の民家には床すらなく土間に筵を敷いて生活していたといいます。その後、飛騨に養蚕技術が伝わると、現金収入となる養蚕を行うために家屋が大型化し、大屋根で部屋に壁の仕切りがない飛騨民家や、高層の白川郷合掌造りといった大型民家が発達しました。
民家だけでなく、養蚕の成功を祈る年間行事など、今に伝わる多くの生活文化に影響を与えてきた養蚕業は、太平洋戦争後にナイロンなどの化学繊維に圧迫され、また、農村の近代化によって集落に農業用水路が整備されたことで終焉を迎えました。
それまで水利に恵まれないため稲作ができず桑畑にしていた農地が水田化され、耕地整理で農業機械の入れる大きな田んぼが生まれると、手間のかかる養蚕業は廃れ、飛騨民家や合掌造りの必要性はなくなりました。
こうして、昔ながらの大型民家はだんだん姿を消していきます。
明治時代になると、神岡、高根、丹生川や白川をはじめ飛騨各地で鉱山開発が盛んに行われました。
乗鞍岳山中の平金鉱山には、北海道という鉱山町に劇場や小学校までありました。
そこは、今では大自然に戻り、五色ヶ原ガイドツアーが行われています。精錬所から立ち上る煙で森林が枯れてしまったことから、乗鞍岳の千町尾根には「枯松平」の地名が残っています。
世界に日本アルプスの素晴らしさを紹介したウェストンは、明治25年(1892)の乗鞍岳登山の際に、平湯大滝の上流にある鉱山に泊まり、工夫の宴会に芸人が呼ばれるほど賑わっていた様子を書いています。
飛騨の鉱山の中でも、最大規模を誇るのが三井組(後の三井金属工業)が経営する神岡鉱山でした。戦前、戦後と時代を通して発展し、日本を代表する非鉄金属鉱山として戦後の高度成長を支えてきました。一方で、高原川へ流した排水に含まれるカドニウムが神通川を汚染し、下流の富山県の人々に深刻な公害病「イタイイタイ病」を引き起こしました。
その後、亜鉛などの輸入価格が下がって日本国内の鉱山は採算がとれなくなり、神岡鉱山も採掘をやめて輸入鉱石の精錬を行うようになりました。さらには、鉱石を運んでいた神岡鉄道も平成18年(2006)に廃線になりました。
一方、閉山となった坑道を利用して作られた宇宙線観測施設「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」は、微量の素粒子ニュートリノの検知に成功し、平成14年(2002)東京大学の研究者小柴昌俊教授のノーベル賞受賞に貢献しました。
明治時代に男子の義務として兵役が課されると、飛騨の男性は富山県の歩兵第35連隊に入営しました。
第一次世界大戦後の世界恐慌と、人口急増による社会不安が全国を覆うなかで、日本は中国大陸への侵略傾向を強めます。昭和6年(1931)関東軍が満州事変を起こして中国東北部に満州国を成立させると、貧しかった飛騨の農村からは多くの農民が満蒙開拓団として中国東北部に入植しました。
しかし、故郷と違った厳しい気候風土に苦しみ、第二次世界大戦末期にはソ連軍の侵攻によって辛酸をなめました。さらに、ようやく祖国へ引き揚げたのちは、食糧確保のため山深い寒冷地に開拓村を作るなど、生活のために苦労が絶えませんでした。
また、戦乱の中で中国残留孤児となり、中国人養父母に育てられた子どもたちは、1970年代に日中国交回復が行われると、父母を尋ねて祖国に帰ってきました。
長い歴史を通して、飛騨の国は険しい山や深い谷に隔てられた交通不便な辺境の地でした。明治時代から鉄道建設の願いは強く、政府への請願が行われていました。
大正7年(1918)に高山線の建設が国会を通過し、大正9年の工事開始以来14年を経て昭和9年(1934)ようやく全線開通しました。高山駅から岐阜駅までわずか3時間47分、という高山本線の開通は飛騨の夜明けとなりました。
徳川幕府に仕えた儒学者・林羅山が「天下三名泉」に挙げた下呂温泉は、江戸時代には年間3万人もの湯治客が訪れる温泉地でした。当時の温泉源は「湯壷」と呼ばれる河原の露天風呂でしたが、明治29年の大洪水で壊滅的被害を受け、貴重な温泉を失ってしまいます。
その後、外部資本を導入して復興しつつあった下呂温泉は、昭和5年の下呂駅までの鉄道部分開通をきっかけに先進的な温泉リゾート都市を作り、その後、日本有数の一大温泉地へ発展する起爆剤となりました。
一方、最も遅れて開通した高山駅では、昭和11年(1936)の市制施行と併せて発展が期待されたのも束の間、時代は戦争一色になって開発どころではなくなり、皮肉にも古い街並みが保存されました。
戦後、昭和40年代に入るとモータリゼーションの高まりと共に、名古屋と富山を結ぶ国道41号線が整備されます。しかし、長野県を通して関東方面と結ぶ国道158号線には、標高1790mの北アルプス安房峠が立ちはだかっていました。
北陸方面から関東へ向かうトラックは、神岡・平湯経由が最短ルートです。そのため、大型車同士のすれ違いもままならないヘアピンカーブが連続する安房峠では、大型トラックや観光バスの渋滞が慢性化し、また、冬季は通行止めになるため、トンネル建設が地元の悲願でした。
飛騨と信州を貫く安房トンネルは、昭和47年(1972)に工事が始まり、やがて、中部縦貫自動車道の一部に格上げされました。しかし、活火山・焼岳と休火山の乗鞍岳に挟まれた安房峠は火山地帯であり、破砕帯の採掘で熱水や火山ガスが噴出するなど、その工事は困難を極めました。特に平成7年(1995)には長野県側の中ノ湯で火山ガスを含む水蒸気爆発が発生し、4人の犠牲者を出す惨事になりました。
工事はルートを変更して続けられ、長野オリンピックを間近に控えた平成9年(1997)に安房トンネルは有料道路安房峠道路として開通しました。奥飛騨はいまや関東から飛騨への玄関口になり、高山本線開通に続く飛騨の第2の夜明けと呼ばれています。
南からは名神一宮ジャンクションから東海北陸自動車道が長良川沿いに北進し、平成12年(2000)に飛騨清見ICが開通、16年(2004)に中部縦貫道の高山西ICまでが開通し、高山が高速道路時代に入りました。14年(2002)には北から白川郷ICまでが開通しており、平成20年に日本最長を誇る飛騨トンネルによって飛騨清見ICと白川郷ICが結ばれ、東海北陸自動車道が全線開通しました。
明治37年(1904)住民平が創設した飛騨電燈株式会社が水力発電による電力事業を始めました。
初期には各町ごとの中小水力発電が主な電力源でしたが、急峻な地形と豊富な水資源を持つ飛騨では、ダムと水力発電所建設が国によって進められ、戦後には日本有数の大規模ダムが次々に作られました。電力は関西や名古屋の工業地帯に送電されて、高度経済成長を支えました。
昭和35年(1960)に建設された御母衣ダムは、庄川の流れを塞き止め、白川郷の数多くの合掌集落を湖底に沈めました。その中には、高山市へ移築された浄土真宗の古刹・照蓮寺も含まれますが、境内にあった樹齢450年の荘川桜は水没を惜しまれて、多大な困難の末に高台に移植されました。ダム湖畔に変わらぬ美しい花を咲かせる荘川桜の大樹は、水没地住民のふるさとの象徴となっています。
ダムに沈む集落からは合掌造り民家が都会へ売られ、また、保存のために村外に移築して、高山市の「飛騨民俗村」や下呂市の「下呂温泉合掌村」がオープンしました。
一方、白川郷の多くの集落がダム補償金を得て現代住宅に建て替えるなかで、村内最大の荻町地区だけはダム補償金を受けられませんでした。その結果、貴重な合掌造りが残されることになり、伝統家屋保存の機運が高まった昭和46年(1971)に合掌造りを「売らない、貸さない、壊さない」という三原則が定められ、萱葺き屋根の葺き替え補助金などもあって、白川郷は観光立村へと歩き出します。
昭和44年(1969)には高根ダムの完成で高根村の主要な集落が水没し、飛騨川上流は朝日、秋神、高根第1、第2ダムと連続するダムによって寸断されました。さらに、昭和51年(1976)水資源公団の岩屋ダム、馬瀬川第2ダムが建設されました。
相次ぐダム建設は村の財政を潤し、その後も電源交付金など優遇措置がとられてきましたが、集落の水没による住民の転出は、過疎化の引き金を引きました。
かつて飛騨の川では、動物性蛋白源として川魚を捕っていましたが、趣味の魚釣りや商売としての川漁は見られませんでした。一方、江戸時代から職業の鮎漁が盛んだった静岡県伊豆地方・狩野川の漁師たちは、交通が発達した大正時代初め頃から全国の河川に鮎の友釣り技術を持って出稼ぎ漁に出かけます。
大正11年(1921)伊豆の天才鮎漁師・山下福太郎が長良川にやってきました。やがて彼は馬瀬川、飛騨川沿いに定住します。全裸で川に潜って鮎を観察し、おもむろに友釣りを行う強烈なスタイルは地元の注目を集め、農家の現金収入として鮎釣りの教えを乞う人々が殺到しました。山下が考案した「山下竿」を学んだ職人たちは、長良川で「郡上竿」を発達させました。
戦後の長良川、馬瀬川、飛騨川では山下の釣り弟子たちが川漁で生計を立て、鮎の友釣りブームでやってきたお客たちで民宿も賑わいます。しかし、ダムや河川工事、多すぎる釣り客は天然ものを激減させ、川漁師も姿を消し、漁協は放流魚に頼ることになりました。山下は脳溢血に倒れ、愛してやまない川が変貌する頃、三重県小杉谷に住まいを移してひっそりと息を絶ちました。
高山市の東にそびえる乗鞍岳は、飛騨三郡にまたがり、古くから飛騨の象徴として親しまれてきました。
江戸時代は、円空上人が登頂するなど信仰登山の対象になり、明治時代には、ウォルター・ウェストンら山好きな外国人によって日本人にスポーツとしての登山が紹介されました。美濃生まれの修験者・無尽秀全に師事した丹生川の板殿仙人こと板殿正太郎や朝日の上牧太郎之助ら地元の篤信家によって登山道や山小屋の整備が進み、大正時代からは一般の登山もさかんになりました。
大正3年(1914)平湯分教場に教員としてやってきた篠原無然は、山村の社会教育や女工問題に取り組むとともに、北アルプスを山岳公園にすることを説いて、地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備しました。彼は志半ばで吹雪の安房峠に倒れますが、「飛騨青年の叫び」と題する歌を遺しています。
「ああ偉なるかな飛騨の山、ああ美なるかな飛騨の渓、ああ清きかな飛騨の水」
昭和16年(1940)、太平洋戦争が始まると、乗鞍岳のなだらかな山容に目をつけた軍部によって、山頂に航空機エンジンの高地実験場の建設がはじまります。軍部から協力を求められた濃飛乗合自動車と高山市は、終戦後に乗鞍岳が観光地となることを見込んでバスが通行可能な道路幅を確保しました。
結局、航空機エンジン実験は成果が出ないまま終戦を迎えましたが、地元の見込んだとおり、乗鞍岳の自動車道路は飛騨観光の先駆けとなりました。終戦直後の昭和23年(1948)には登山バスが運行を始めています。
その後、有料道路乗鞍スカイラインとしてオープンしましたが、夏休みシーズンには山頂駐車場に入りきらないマイカーで渋滞し、自然環境に悪影響を与えていました。有料道路の償還期限となる平成15年(2003)から岐阜・長野両県は乗鞍岳山頂につながるスカイラインとエコーラインでマイカー規制を実施しました。
新穂高温泉の中尾村には奥山に詳しい樵や猟師が多く、明治の北アルプス登山の開拓時代に優秀な山岳ガイドを輩出しました。明治41年(1908)に設立された飛騨山岳会は、日本山岳会に次ぐ歴史の古さを誇ります。しかし、大正9年(1920)の土砂崩れによって、登山基地であった蒲田温泉が崩壊すると、戦後まで北アルプス飛騨側の復興は進みませんでした。
そのため、観光客で賑わう信州・上高地に対して、飛騨側は裏穂高という不本意な呼ばれ方をしていましたが、昭和45年(1970)、新穂高温泉から北アルプス・西穂高岳の千石平を結ぶ新穂高ロープウェイの開業をきっかけに、今では日本一の露天風呂天国として人気の山岳観光地になっています。
戦後の混乱が収まり、登山ブームが起きた昭和30年代、飛騨側から北アルプスに登山した人たちは、帰りの列車を待つ時間に飛騨高山の町を歩き、昔の街並みや伝統工芸が残っていることを発見しました。
雑誌編集長であった花森安治は「暮しの手帳」で飛騨高山を「山の向こうの町」と初めて紹介します。その後1970年代に国鉄のディスカバージャパンキャンペーン、雑誌アンアンやノンノの創刊などで、アンノン族と呼ばれる若い女性の旅行ブームが始まり、飛騨高山は全国有数の観光地になっていきました。
一方で、高度経済成長期の飛騨では、全国と同じく生活環境の変化に伴う環境問題が生じていました。
ごみや生活廃水が垂れ流される宮川から魚の姿が消え、市民の間に環境改善運動が起こります。子ども会を中心に、川に関心を持つために宮川や古川町の瀬戸川といった都市河川には鯉が放流されました。市民がごみを捨てない運動や排水問題に取り組んだ結果、飛騨高山や飛騨古川の水辺が蘇りました。
明治22年(1889)、市町村制が実施されて、飛騨は大野郡・吉城郡・益田郡の3郡の中に、高山町・船津町・下呂町の3町、31村となりました。その後、昭和11年に高山市が誕生しました。
戦後の昭和30年(1955)昭和の大合併で飛騨は1市3郡19町村になっています。
平成の大合併はさらに大きな変化をもたらしました。
各地で市名や市庁舎所在地を巡るごたごたを繰り返しながらも、平成16年(2004)国府町・上宝村を除く吉城郡が合併して飛騨市になり、益田郡5町村が合併して下呂市が誕生しました。翌17年には白川村を除く大野郡全町村と吉城郡国府町・上宝村が高山市に吸収合併されました。
大野郡白川村は平成7年(1995)にユネスコの世界遺産に登録された観光地、白川郷合掌集落を抱えるため、高山市との合併を望まず独立姿勢を貫きました。
中でも、高山市は大阪府や香川県より広く、東京都に匹敵する面積を持ちながら、人口は100分の1という状態です。野麦峠のある旧高根村はタカネコーンや唐辛子調味料「うま辛王」などの特産品があり、多くの観光客を集める日和田高原火祭りで有名でした。しかし、合併時に700人以上あった人口が5年後には400人を切り、イベントは廃止され、学校さえなくなります。
集落自治が維持できない危機的状況に対し、高山市は集落支援員を設置したり、診療所医師による老人世帯訪問や、零下10度にもなる豪雪地の厳しい冬には中心集落のぬくもり館で集団生活するなどの限界集落対策を採って注目されています。
少子高齢化によって過疎化が進み、地方交付税が削減されてゆく中で、飛騨の3市1村はどこでも財政難や将来の発展について苦慮しています。
下呂市馬瀬地域も合併により過疎化が進む山村です。ここでは、フランスの地方自然公園制度に倣って、地域全体を「馬瀬地方自然公園」と称し、住民と行政が協力して自然と生活が共存した持続可能な発展を図っています。
山林面積の4分の1を超える広大な水源の森を「渓流魚付き保全林」として保護し、森から流れる山水が棚田を潤して馬瀬川の良質なコケを生み、鮎を育てる農村生態系は「馬瀬川エコリバーシステム」と呼ばれています。
馬瀬地域の取り組みは「日本で最も美しい村連合」加盟など全国から高く評価され、馬瀬川の鮎も味や香りが日本一に輝くなど、注目されています。
明治維新によって、飛騨の江戸幕府管理の天領の山々はそのまま御料林に移管されて皇室の所有地となり、戦後は営林署管理の国有林になります。切り出された木材はかつて飛騨川を流されて木曽川に集められ、やがて国鉄高山線に接続して森林鉄道が奥山深く敷設され、多くの木材が伐採されました。
飛騨南部の御嶽山に眠る木曽五木の美林には、戦後のチェーンソーや重機の導入によって奥山まで伐採の手が伸びました。国有林は戦後の復興需要を支え、山麓の町が林業景気に沸く一方、森林限界を間近に望む亜高山帯の森林まで皆伐されます。
荒れ果てた皆伐跡地には拡大造林と称して生長の速いカラマツが一斉に植林され、植物や動物が暮らす山の生態系は著しく貧困化しました。
里山の民有林は、燃料革命によって木炭需要がなくなると、雑木林からスギやヒノキが一斉植林された単純な林相に変えられます。しかし、価格が安い輸入木材に圧迫されるようになると、林業経営が割に合わなくなった山林は放置され、手入れがされないまま荒れていきました。
飛騨中央部から北部にかけては豊かなナラやブナの森が広がっていました。
ブナは利用価値のない木として見向きもされませんでしたが、大正時代にスチームを利用した加工技術が導入されると、無尽蔵のブナ材を利用した曲木家具が生まれました。飛騨の家具は、西洋式塗装技術の未熟さを飛騨伝統の春慶塗を施すことによって克服し、高級家具として注目を集めます。昭和初期には飛騨を代表する海外輸出製品に成長しました。
戦後の高度経済成長期には家具の大量消費と大量生産に合わせ、飛騨のナラやブナの森は瞬く間に切り尽くされました。それに危機感を覚えた工芸家たちが全国から集まり、昭和46年(1971)清見村に今でいうスローライフを目指したオークビレッジを作って移り住みます。「樹齢百年の木は百年使える家具にしよう」をテーマに、オークビレッジは自然と共生する工芸集落として、さまざまな活動を行っています。
やがて、森林を守れという声が高まり、わずかに残された原生林が自然保護区として守られました。しかし、日本中がバブル景気に沸いた1980年代には、森林伐採に替わり国有林でのスキー場やゴルフ場などのリゾート開発が行われるようになりました。
飛騨をはじめ岐阜県内のあちこちに箱物施設を建設した梶原拓知事が土木建設の推進役となり、御嶽山飛騨側にロープウェイと山岳スキーリゾート、乗鞍岳の南麓と北麓にロープウェイのある大規模山岳スキー場、神岡の山之村高原にスキーリゾートが計画され、それぞれの地域で開発と自然保護のせめぎ合いが繰り広げられました。
ほとんどのリゾート計画は実現前にバブル景気が弾けて幻に終わります。その後の長い景気低迷と消費傾向の変化によって、従来のスキー場も経営が苦しく廃業する施設が相次ぎました。
現在では、飛騨に残された貴重な自然遺産を体験する新しい観光が注目されます。
下呂市では「岐阜県の宝もの第一号」に指定された御嶽山麓の飛騨小坂200滝を巡るガイドツアー、高山市では乗鞍スカイライン開通によって登山道が消滅した五色ヶ原の広大な森林と滝や池を巡る「五色ヶ原仙人道」ガイドツアー、飛騨市に点在する高層湿原で行われる「北飛騨の森」ガイドツアーなどです。
どれも地元の方が務めるインタープリター(自然案内人)に連れられて、ゆっくり自然本来の姿を見つめながら生態系学習と山歩きを楽しむ、というもので、今までのマスツーリズムのあり方とは異なります。
これからの飛騨スタイルの観光の姿になるかもしれません。
いまや飛騨随一のブランドともいえる飛騨牛ですが、歴史は意外に新しく、昭和56年(1981)に兵庫県但馬地方から導入した種雄牛「安福号」に始まります。
体の巨大さ、肉の柔らかさ、ほどよい霜降りといった条件を備えた安福は、4万頭もの子牛を遺す大ベストセラー牛となりました。
岐阜県で14ヶ月以上肥育した黒毛和牛の肉質等級3級以上のものだけが「飛騨牛」を名乗れるという厳しいブランド管理の下で、多くの肥育農家の努力もあって全国にその名を轟かせています。平成20年(2008)食肉業者による飛騨牛偽装事件ののちは信頼回復を図り、さらなる努力が続けられています。
最近、下呂市の水田で生まれたブランド米が「龍の瞳」です。農業研究者の今井隆さんが自宅の水田で偶然発見した突然変異種から、粒の大きさがコシヒカリの1・5倍、粘りが強くて甘みのある新品種として育て上げ、日本一美味しい米として高値で取引されるようになりました。
「龍の瞳」生産には地域活性化のコンセプトがあります。農薬使用量を大幅に減らし、生物を田んぼに蘇らせ、きれいな水を安定して得るために広葉樹の森づくりも並行して行われています。おいしいお米作りがきれいな空気と水を生み出し、農村の活性化や、飛騨に遊びに来る都会の人たちの癒し、さらには海まで続く流域生態系を蘇らせることにつながります。
奥飛騨温泉郷のひとつ福地温泉はいまや最も注目される高級温泉地になりました。
しかし、少し前の福地は忘れられた温泉でした。小規模旅館ばかりでは、団体客を扱う旅行会社が相手にしてくれなかったのです。露天風呂ブームに沸くバブル時代にも、福地は脚光を浴びませんでした。
「福地には温泉と囲炉裏しかない。ならば、昔ながらの雰囲気で売り出そう」
立ち上がったのは、温泉旅館を継いだ若手経営者たちでした。温泉街の植樹、看板の統一、派手な施設を造らない取り決めが行われました。各旅館は囲炉裏を作ったり、風格のある古民家を移築して落ち着いた和の雰囲気を大切にしました。 「たくさんの観光客を呼び込むよりも、訪れた人の記憶に残る温泉地でありたい」
福地温泉には他の宿でも温泉を楽しめる「ぬくとまり手形」や、宿泊客が利用できる足湯と囲炉裏の休憩処、温泉朝市など、浴衣を着て下駄をカラコロ鳴らしながら歩くにはぴったりの仕掛けがあります。カラオケもコンビニもない「ぜいたくさ」が、福地温泉を和風高級温泉地に変えました。
飛騨の人々のこつこつとした努力の積み重ねが「飛騨ブランド」を作っています。
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