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かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に (万葉集)
奈良時代、地方の国々は租庸調と呼ばれる税や貢物を朝廷に納めました。
しかし、農耕が発達せず、特産品もない飛騨の国は、地方の中でも最低ランクの下下の国に位置づけられ、税を免除される代わりに、都で宮殿や寺院の建築工事に携わる匠丁(労働者)を差し出すことになりました。 これが「飛騨匠」と呼ばれる人々です。
匠丁は1里(50戸)ごとに10人(9人の労働者と1人の炊事係)を出し、毎年100人を越える労働者が奈良の都へ上りました。原則1年交代とされていましたが、労働は激しく、食事も自給であったので、逃亡者も多くなって、その取り締まりも厳しく行われたといいます。
ずっと後の明治時代、紡績産業を支えるために飛騨の娘たちが越えた野麦峠は「女工哀史」で有名ですが、奈良時代、都の建築工事を支えるために飛騨の男たちが越えた「位山峠」もまた、悲劇の峠でした。
このような匠丁の中から、都に住み着いて技術を磨き、名匠と呼ばれた人々が現れます。それらの名匠たちの仕事は、説話や伝説として後世に伝わりました。
江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自信を持ち、屋台や古民家などに高い建築技術を注ぎました。その伝統はいまでも残っています。
飛騨の匠の元祖とされる人物が鞍作止利、法隆寺釈迦三尊像を作った止利仏師として知られています。
推古天皇の時代、聖徳太子の命を受けた大陸からの渡来人、鞍作多須奈は良材を求めて飛騨へやってきました。天生谷にみごとな原生林を見つけた多須奈は、部下に言いつけて伐採に取りかかりました。
ところが、木を切ると真っ赤な血が流れ出します。人々は恐ろしくなり、次の日は谷をかえて切ることにしました。すると、今度は濃い霧が立ち込めて目の前さえ見えません。それでも仕事を続けると、雷が鳴り響いて大雨となり、とうとう伐採をあきらめなければなりませんでした。
飛鳥の都へ戻った多須奈は、聖徳太子にその様子を詳しく伝えました。聖徳太子は宮中に祀られていた自像を取り寄せて、身代りに現場に安置するよう申されました。
天生谷に戻った多須奈は、現場に聖徳太子像を安置して仕事をはじめました。すると何事もなく伐採が進んだといいます。聖徳太子像は都へ戻りましたが、やがて縁あって飛騨に戻り、いまでも神岡の常蓮寺に祀られています。
さて、天生谷で伐採を行っていた頃、多須奈は月ヶ瀬の村に住んでいた娘・久良女と恋に落ちました。しかし、渡来人と村娘では身分が違うので、久良女は誰にもそのことを打ち明けられません。そのうちにお腹がどんどん大きくなり、父母や村の人々は父親のない子と思って「月から授かった子」「天より授かった子」と言いふらしました。
多須奈は久良女と子どもを飛騨に残して飛鳥の都に戻ってゆきました。
生まれた子どもは、首がひょろりと長く、鳥に似ているというので、「止利(とり)」と名づけられました。
大きくなると杣仕事をしましたが、木人を作ると勝手に動き出して天生湿原に水田を耕し、実った稲を脱穀した籾が積もって籾糠山になりました。多須奈の賢さと天才的な腕前はすぐに評判になり、やがて飛鳥の都へ上って父・多須奈に会い、仕事を任されるまでになりました。
聖徳太子の命を受けた鞍作止利は、法隆寺の釈迦三尊像をはじめ多くの仏像をつくり、止利仏師と呼ばれて尊敬されました。飛騨の匠の元祖とされる人物です。
飛騨市河合町の伝説です。
今は昔。
宮中に仕える百済川成は天才絵師として有名でした。その友人に建築の天才である飛騨の工がいました。二人は腕を競い合いながらも仲が良かったのですが、ある日飛騨の工が百済川成を家に誘いました。
川成が飛騨の工の屋敷に行くと、おかしな小さなお堂が建っていて、四方の戸が全部開いていました。
お堂に絵を描いてほしい、と言われた川成は、さっそくお堂の縁側に上がって南の戸から中に入ろうとしました。すると、目の前で戸がぱたりと閉じます。驚いた川成は西の戸から入ろうとすると、西の戸が閉じて南の戸が開きました。
北の戸から入ろうとすると、また閉じて西の戸が開きます。東の戸も目の前で閉じて北の戸が開きます。 お堂の縁側をぐるぐる回る川成を見て、飛騨の工は腹を抱えて大笑いしていました。
からかわれて恥をかいた百済川成は、今度は飛騨の工を招待しました。
仕返しを警戒して、なかなか首を縦に振らなかった飛騨の工も、川成があまりに熱心に誘うので何を見せる気か興味が湧いて、川成の屋敷に出かけました。
川成に案内されて廊下の戸を開けると、部屋には、死んで黒く腐って膨れた人が倒れていました。異臭が鼻を突き、あまりのことに驚いた飛騨の工は悲鳴をあげて外へ飛び出します。
外でぶるぶる震えている飛騨の工を見て、川成が大笑いしていました。よく見ると、部屋の死体は絵だったのです。
「今昔物語」二十四にある説話です。
飛騨内匠は、木鶴大明神とも呼ばれ飛騨の匠の神様とされる人物です。 飛騨内匠の木工技術は天才的で、日本国内には右にでる者がいません。そこで、日本に飽き足らなくなった内匠は海を渡って世界で勝負しようと思い立ちました。
内匠が木を彫って鶴を作ると、木鶴は空高く舞いました。内匠は木鶴に跨って空を飛び、中国・唐を目指して西へ向かいます。ちょうど北九州へ差しかかったとき、空を飛ぶ怪しい鳥に気づいた人が、矢を木鶴めがけて放ちました。
矢は内匠には当たりませんでしたが、片羽根に命中してしまいます。羽根の落ちた場所を羽形といい、のちに博多と呼ぶようになりました。木鶴はバランスを失ってひょろひょろ飛びますが、内匠は恐れずに片羽根だけで唐へ渡りました。
中国でも飛騨内匠の天才技術は有名になりますが、とうとう内匠にかなう腕の人物は現れません。そこで、また木鶴を作って日本へ帰ることにしました。ところで、中国滞在中に内匠は結婚したのですが、身重の妻を置いて内匠は1人で帰国してしまいます。
まもなく生まれた子どもは13歳のときに、父親を探して日本へやってきました。苦労して探し当てた父親・内匠は、わが子かどうか疑い、仏像の左右半身をそれぞれ作って合わせてみよう、と提案しました。 そして、できあがった半身を合わせてみると、不思議にもぴったり合った立派な仏像が完成したので、内匠親子は抱き合って喜びました。
正徳5年(1715)井沢長秀著の「広益俗語弁」に出てくる説話です。
中国・唐の時代、皇帝・穆宗に仕えた日本人がいました。
名を韓志和といい、木工の名手でした。からくりを仕込んだ鳥の彫刻は、200mも空中を高く飛びました。木猫はネズミやスズメを逃がさず捕らえることができました。
皇帝の前で技術を披露して褒められた志和は、次に「見龍床」という豪華なベッドを作って皇帝に献上しました。喜んだ皇帝がベッドの踏み台に足をかけると、金色に輝く龍の彫刻が出現して皇帝のどぎもを抜きました。
あまりの迫力に恐ろしくなった皇帝は、すぐにベッドを撤去させます。皇帝に怒鳴りつけられた志和は、おわびに桐の小箱を取り出して、いいものをお見せいたします、と奏上しました。
箱の中には、「蝿虎子」という木製の蜘蛛がぎっしり詰まっており、皇帝の前で5隊に分かれて涼州曲を舞いました。流行曲を踊る蝿虎子に気を良くした皇帝は、宮廷の楽隊を呼んで涼州曲を演奏させます。すると、演奏に合わせて飛んだり跳ねたり宙返りをしたり、その技は見る人を飽きさせませんでした。
さらに、蝿虎子を手にとって放つと、数百歩以内の蝿を捕らえることができました。
皇帝はすっかり喜んで、褒美に財宝を下賜しますが、宮中を出た志和はことごとく財宝を人に譲ってしまいまい、その所在も分からなくなってしまいました。 韓志和は中国へ渡った飛騨の匠だといわれています。
唐の蘇鶚が書いた「杜陽雑編」に出てくる説話です。
鎌倉時代、美濃国白山長滝寺を建立した実在の名工で、大工としてはじめて朝廷から官位を与えられました。そのため、飛騨権守と呼ばれて尊敬されています。
江戸時代、飛騨の匠の末裔であることを誇りにした大工たちは、藤原宗安の肖像画に万葉集の歌を書いて大切にしていました。
かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に
江戸時代に、日本各地の伝説として残る飛騨の匠がいたとされます。
日光東照宮の眠り猫の彫刻で有名な左甚五郎ですが、活躍したとされる時期が戦国時代から江戸後期まで300年にも及び、全国各地に伝承があることから、飛騨出身の大工の総称で、「飛騨の甚五郎」が訛ったものともいわれます。
飛騨一宮・水無神社の境内に、左甚五郎が少年のころに彫刻したという黒い神馬像があります。その昔、一宮の村では、秋になると夜のうちに田んぼの稲が何者かに食い荒らされて大変困っていました。村人たちは水無神社の神馬像の仕業ではないか、と噂しあいます。
そこで、神主が名工を呼んで神馬像の目をくり抜いたところ、田んぼが荒らされる被害はぴたりと止まった、といいます。
南飛騨萩原の上呂にある久津八幡神社には、和田さまという飛騨の匠が作った彫刻があります。
本殿に彫られたウグイスの彫刻は、美しい声で鳴いていました。ひと休みしようと久津八幡に立ち寄った旅人が昼寝を邪魔されて怒り、彫刻に石を投げたところ、鳴くのをやめてしまったといいます。
また、拝殿に彫られた鯉は、生き生きしているあまり、水が恋しくて飛騨川の流れを神社の方へ呼び寄せました。押し寄せる洪水に恐れをなした村人たちは、高山へ出向いて和田さまに相談します。村人の話を聞いた和田さまは白木で矢を作ると、これを拝殿に取り付けるよう言いました。 鯉の彫刻に向けて矢をつけると、不思議に川の水は引いてゆきました。
天明4年(1784)、大火で焼失した高山別院が再建されることになりました。
高山でも有数の豪商・上野屋靖三郎は個人で鐘と鐘楼を寄進することにし、上野屋専属の大工・谷口五右衛門に鐘楼の建築を依頼しました。
ところが、谷口五右衛門は、当時、最高の勢力を持ち、高山別院本堂を造っていた水間相模守とその一族から、守名のない大工が造るのか、と侮辱されました。 それを聞いた上野屋は、すぐに番頭を京都に走らせ、公家に金を積んで権守という官位を受けてきました。鐘と鐘楼を合わせた建築費より、権守名を受けるための金の方が高かったといいます。
谷口権守の一族は、その後名工が輩出し、江戸後期から明治にかけて寺社や高山祭りの屋台など多くの秀作を残しました。
幕末の彫刻の天才で、恵比須台、麒麟台、崑崙台、琴高台、鳳凰台が代表作です。
東照宮の彫刻師・中川吉兵衛の弟子になり、29歳で高山を離れて京都へ移るまでの間、高山祭りの屋台彫刻に情熱を注ぎました。
特に春の山王祭・麒麟台の「唐子群遊」は、1本の木から、籠の中にいる鶏まで写実的に彫り出して神業と称えられました。また、恵比須台の「手長」「足長」は出雲神話をモチーフにしており、宮川にかかる鍜治橋のモニュメントにもなっています。琴高台の彫刻は「鯉魚遊泳」など鯉づくしです。
また、秋の八幡祭・鳳凰台では、高山祭りの屋台中、最大の彫刻「谷越獅子」を弟子の浅井一之とともに彫り上げています。
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