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飛騨は岐阜県の北部を占める山地で、かつて飛騨国と呼ばれていた地方です。
地名の由来はいくつも説があり、うねうねと広がる山襞から「ひだ」と呼んだ、とか、田舎や辺境を意味する「鄙・ひな」が転じたもので、近くに位置する恵那や伊那と同意であるとか、名馬の産地で、朝廷に「飛ぶように走る馬」を献上したから「飛騨」とか、言われています。
高山と郡上を結ぶせせらぎ街道の分水嶺近く、龍ヶ峰の高原には飛騨共同模範牧場が広がっています。その草原の一角に、大空を翔る天馬が眠っている、と伝えられる龍馬石があり、飛騨の国名の起こりだと伝わります。
神代のむかし、高天原の祖神様は、竜よりも速く空を飛ぶ「龍馬」という天馬を、川上岳と白山の女神にお使いとして遣わしました。龍馬は川上岳の女神にお使いをし、次に白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見しました。
我慢しきれず草原に舞い降りた龍馬は、腹いっぱい食べると眠りこけてしまったので、やさしい祖神様は、龍馬をそのまま眠らせてやろうと考え、馬の形の石に変えました。
飛騨の由来として、天馬伝説はロマンチックで、ぜひこちらの説を推したいところです。
飛騨の歴史の起こりも伝説に彩られています。
古代、大和朝廷がその勢力を全国に広げようとしている頃、飛騨高原には独自の文化を持った先住民族が暮らしていました。
先住民族の首領「両面宿儺」は、前後2つの顔を持ち、4本の手で武器を操り、4本の足で駆ける怪物。仁徳天皇の時代、朝廷は何度も飛騨に軍勢を差し向けますが、山地の戦いでは両面宿儺にかないません。そこで、名将・難波根子武振熊命を大将にして、大掛かりな平定作戦を決行しました。
両面宿儺は美濃まで出て朝廷軍を迎え撃ちますが、敗れて本拠地の鍾乳洞に逃げ込みます。宿儺を追い詰め、組み伏せた武振熊命は降伏を勧めますが、宿儺はこれを断って討ち死にしてしまいました。
日本書紀には朝廷に逆らう怪物として描かれる両面宿儺ですが、飛騨地方では民衆を導いた英雄、恩人として信仰の対象になっています。高山市丹生川の千光寺は宿儺が開いたといい、飛騨地方の古い寺や神社には、両面宿儺や武振熊命の伝説がいまでも伝えられています。
両面宿儺の故事に描かれた民族が縄文系だったのか弥生系だったのか分かりませんが、ブナやナラの森に覆われた古代の飛騨では縄文文化が発達し、多くの縄文遺跡が発掘されています。
下呂温泉にある湯ヶ峰火山が10万年前の噴火で噴出したガラス質の「下呂石」は、非常に硬くて鋭く、やじりに加工するのに適していました。下呂石製の石器は長野県や遠く千葉県からも発掘されており、縄文時代に広い範囲で交易が行われていたことが分かります。
また、高山市一之宮町の飛騨一之宮水無神社は「水主」の意味を持ち、宮川の水源にそびえる位山を御神体と崇めていますが、古代弥生系の出雲族が宮川を遡って高山盆地を開拓したことを伝えています。高山市国府町には古墳が集中して残っており、当時の地方権力の中心であったようです。
飛騨南部の益田郡は尾張族の神である尾張一之宮・真墨田神社と関係するという説もあり、成務天皇から斐太国造に任じられた大八椅命も尾張族です。こうして、縄文系と弥生系が混じりながら飛騨人が形成されていきました。
室町時代の飛騨国司・姉小路基綱は、「日本書紀」にある「櫛玉饒速日命」と神武天皇の故事を両面宿儺伝承に置き換えて書いています。その「櫛玉饒速日命」は物部氏の神で、物部守屋は蘇我氏・聖徳太子と争って敗れました。
古代飛騨の豪族・斐太氏が属する尾張族は物部氏一族であり、守屋神社(現・錦山神社)が現存するなど、飛騨と物部氏の関係が深いことから、作家の坂口安吾は両面宿儺伝承が「記紀神話」で隠された古代政争史の反映と見る作品を書いています。
奈良時代、地方の国々は租庸調と呼ばれる税や貢物を朝廷に納めました。
しかし、農耕が発達せず、特産品もない飛騨の国は、地方の中でも最低ランクの下下の国に位置づけられ、税を免除される代わりに、都で宮殿や寺院の建築工事に携わる匠丁(労働者)を差し出すことになりました。これが「飛騨匠」と呼ばれる人々です。
匠丁は1里(50戸)ごとに10人(9人の労働者と1人の炊事係)を出し、毎年100人を越える労働者が奈良の都へ上りました。原則1年交代とされていましたが、労働は激しく、食事も自給であったので、逃亡者も多くなって、その取り締まりも厳しく行われたといいます。
ずっと後の明治時代、紡績産業を支えるために飛騨の娘たちが越えた野麦峠は「女工哀史」で有名ですが、奈良時代、都の建築工事を支えるために飛騨の男たちが越えた「位山峠」もまた、悲劇の峠でした。
万葉集には、大工仕事に精を出す飛騨の匠の様子をよんだ歌があります。
「かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に」
このような匠丁の中から、何回も都へ上ったり、都に住み着いて技術を磨いた名匠たちが現れます。
からくり屋敷を作って絵師・百済川成をからかった匠、日本から木彫りの鶴に跨って中国へ飛んだ飛騨内匠、唐の皇帝に腕前を披露した韓志和など、今昔物語から中国の説話集にまで逸話を見ることができます。
江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自信を持ち、屋台や古民家などに高い建築技術を注ぎました。その伝統はいまでも残っています。
山深い辺境の地でありながら、飛騨に仏教が伝えられたのは意外に古く、日本書紀に記録された飛騨の仏教寺院の記事は西暦686年、ようやく日本各地に寺院が建立されはじめた頃です。
奈良時代には、古川盆地に8ヶ寺、高山盆地に約4ヶ寺があったと推定されます。
高山市中心部に、奈良時代から続く「飛騨国分寺」がありますが、創建当時は七重塔がそびえる大伽藍を誇っていました。境内にある大銀杏は樹齢1200年の大樹です。
七重塔建立の際、柱の寸法が短くて困った棟梁に、娘が「寸法の足りない柱を桝組にしたら」と助言しました。みごと七重塔を完成させた棟梁は、柱の秘密が知れるのを恐れて愛娘を殺し、その墓に銀杏を植えたと伝えられています。
その後、戦乱や災害のたびに五重塔、三重塔とスケールを小さくしながら再建され、現在では江戸時代の三重塔が立っています。
飛騨高山の北東、標高1000mの山頂に、平安時代に創建された真言宗の山岳寺院「千光寺」があります。両面宿儺が開いたとも伝えられますが、歴史的には高岳親王によって開山されました。
平安時代から鎌倉時代にかけて、人里はなれた峰々を渡り歩く山岳密教が大いに栄え、最盛期には、山中に19の僧坊や伽藍、飛騨一円に30の末寺を持ち、3000人の僧侶、僧兵を抱える大寺院でした。
また、飛騨各地には高山市国府町の清峰寺、下呂市萩原町の御前山山頂付近にあったとされる真乗寺など、山岳仏教寺院がさかんに建立されました。
平安末期、平時輔が飛騨守に補任されて高山市三福寺町に三仏寺城を築きますが、木曽谷に近い飛騨南部は源氏の勢力圏でした。
平治元年(1159)平治の乱に敗れた源義平(源頼朝の兄)は、飛騨に落ち延びて兵を募集しています。下呂市萩原町の久津八幡宮や金山町の祖師野八幡宮は、悪源太義平が鶴岡八幡宮を勧進したと伝わります。
源平合戦では、木曽義仲の家臣・今井四郎兼平が北陸攻略の一環として、三仏寺城を攻め落としています。平家軍勢を破って、京都上洛を果たした木曽義仲が、源義経に討たれた後、義仲の重臣今井四郎兼平の一族は小坂山中に落ち延び、のちに三木氏の家臣となって萩原に移り住みました。
現在も小坂には吉仲姓(義仲)、萩原には今井姓が多く暮らす地区があります。
飛騨南部は源氏にとって関心がある地方だったため、鎌倉幕府をたてた源頼朝は、幕府樹立の立役者であった文覚上人に命じて下呂・竹原郷に天台宗の山岳寺院「大威徳寺」を建立しました。三重塔をはじめ12坊の伽藍を備えた大威徳寺には、歴代の将軍や執権が参拝に訪れ、美濃国との境には幕府要人の長旅の疲れを慰めるため、常設の能舞台が設けられていたといいます。現在の舞台峠です。
元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅び、建武の新政で、後醍醐天皇は全国に国司を復活させます。全国であっという間に崩壊していった時代錯誤な国司制度が、飛騨ではなぜか奇跡的に生き延びました。
南北朝時代、飛騨には公家の姉小路氏が派遣され、古川盆地に居館を構えました。 当時は国司は京都にいて任地には代官を派遣するのが慣例でしたが、姉小路氏は飛騨に土着して、北朝方室町幕府が任命する飛騨守護の京極氏と争いました。
建徳2年(1371)南朝方の求めに応じて姉小路家綱は弟の尹綱と共に越中国に出兵しましたが、敗れて京都へ帰ります。残された尹綱は応永18年(1411)室町幕府の差し向けた飛騨守護・京極高員の大軍と戦って死亡、姉小路氏は小島・向小島・古河の三家に分かれました。これを応永飛騨の乱と呼びます。
しかし、その後も姉小路氏は飛騨国司を名乗り続け、古河家・姉小路基綱は歌人として、京都にまでその名が知れ渡っていました。武人としても有能で、室町幕府を二分した応仁の乱に呼応し、文明飛騨の乱を起こして西軍方で参戦します。このときは東軍方についた三木氏を追い詰めますが、同じ西軍方の美濃国守護代・斎藤妙椿の仲介で和平しました。
斎藤妙椿は郡上の東軍方・東常縁の留守中を襲った際に、歌人として有名な東常縁が書き送った和歌十首に感動して、占領した郡上篠脇城を返したエピソードもある文化人です。和平仲介は、歌人仲間の姉小路基綱が戦いで傷つくことを惜しんだから、ともいわれます。
ところで、姉小路基綱が飛騨の名所を記した「飛騨八所和歌集」の裏書には、「両面四手の怪神が、天津船に神武天皇を乗せ、雲波をわけて位山に案内して王位を授けた」という不思議な記述があります。
のちの飛騨超古代文明説を想起させますが、これは「日本書紀」に見える大和の先住神「櫛玉饒速日命」の故事を飛騨に置き換えたものであって、両面宿儺を先住民族伝承だと認識した飛騨側としては最古の記事です。
南北朝時代、南朝方についた飛騨北部に対して、飛騨南部では北朝方・室町幕府が京極氏を守護職に任命しました。しかし、それは名目ばかりで、実際には飛騨国主を称した白井太郎俊国を代官とし、その下で下呂・竹原郷に拠点を置く三木氏や、高山・天神山城に拠る高山氏が各地を取り仕切っていました。
三木氏は応仁の乱で京極氏の勢力が勢力が衰えると、飛騨代官の白井氏を破って京極氏の領地を押領、各地の国人を束ねて飛騨の大勢力にのしあがりました。やがて三木直頼が萩原に桜洞城を構え、戦国武将として自立します。
萩原では、北朝御円融天皇の勅願所で天下十刹に数えられながら、戦乱で荒廃していた円通寺を再興して禅昌寺とし、また、久津八幡宮を再建するなど寺社の保護に大きな功績を残しました。
直頼は、大永元年(1521)天神山城の高山外記を破り、高山盆地を手中に収めるとその子、三木良頼は古川盆地で細々と続いていた姉小路家を乗っ取って、自らを京都の名門・姉小路中納言と称しました。
その子、三木自綱も国司姉小路を名乗り、はじめは越後の上杉謙信、美濃の斉藤道三、のちに美濃尾張の大勢力・織田信長と同盟して念願の飛騨統一をめざします。
上杉家から織田家への同盟相手の鞍替えには、三木氏傘下の多くの国人が反対しましたが、自綱は反対者をことごとく攻め滅ぼし、謀反の疑いをかけて長男や実弟まで殺害した結果、三木氏の勢力を弱めました。三木自綱を見限った国人たちは金森長近の飛騨侵攻に協力することになります。
戦国時代、神岡を拠点に高原川沿いの領主として自立していた江馬氏は、はじめ南飛騨の三木氏と連合しましたが、やがて甲州・武田氏の勢力下に入ると飛騨の覇権を巡って三木氏と対抗しました。
武田信玄は永禄2年(1559)配下の武将、山県昌景に飛騨攻めを命じます。飛騨に侵攻した武田軍は、江馬時盛を下して傘下に組み入れ、さらに僧兵団が抵抗する千光寺を焼き討ちしました。1山19坊と称された大伽藍が炎上し、真っ赤に燃えた梵鐘が敵兵をなぎ倒しながら斜面を転がっていったと伝えられます。
また、南では武田氏と連合を組む遠山氏が東濃から竹原郷へ侵攻し、三木良頼が篭城する大威徳寺で激しく戦いました。大威徳寺もほとんどの建物が焼け落ちました。
千光寺はその後、金森長近によって再建されますが、大威徳寺は天正13年(1585)大地震にあって完全に崩壊し、山中に埋もれてしまいました。
天正10年(1582)三木氏の後ろ盾だった織田信長が本能寺の変で討たれると、好機と見た江馬輝盛は大坂峠を越えて南進し、高山市国府で三木・小島・牛丸の連合軍と激突しました。しかし、この八日町合戦では三木自綱が鉄砲を使った戦いで勝利を収め、飛騨をほぼ統一しました。
このとき敗れた江馬輝盛を追って、13人の家臣が大坂峠で自刃しました。土地の者によって峠に葬られたことから、ここが十三墓峠とも呼ばれることになりました。
白川郷は秘境だけあって、飛騨の他の地域とは一線を画していました。
庄川の谷には領主・内ヶ島氏がいて、農業に不向きな土地ながら豊かな金鉱山を押さえていました。
一方、農民たちの間には、鎌倉時代、親鸞上人の弟子・嘉念坊善俊が布教した浄土真宗が広がっており、白山長滝寺の影響力を排除して強い結束を誇っていました。さらに、北陸諸国で領主を追い出した一向一揆勢力が白川郷に流れ込んでくると、農民たちと領主内ヶ島氏の関係は緊張し、文明6年(1474)内ヶ島為氏は照蓮寺を焼き討ちします。
その後、本願寺・蓮如上人の仲裁によって農民と和解した内ヶ島氏は、白川郷の中野に信仰の中心・照蓮寺を再建して真宗門徒との共存共栄をはかりました。
天正13年(1585)金森長近は飛騨侵攻にあたって照蓮寺と連携したため、三木氏と結んだ内ヶ島氏はたまらず降伏します。金森氏に取り入り、なんとか領地だけは安堵された瞬間、天正大地震が発生して居城・帰雲城は崩壊し、莫大な金塊と共に山崩れの中に埋もれてしまいました。
いまも白川郷の帰雲山は巨大な崩壊跡があり、埋蔵金探しをしている人もいます。
金森長近は飛騨平定後、真宗門徒の功績を称えて高山に照蓮寺を迎え、広大な寺域を与えました。
飛騨は、古代の素朴な自然崇拝が、平安末期から鎌倉時代に隆盛を誇った美濃・白山長滝寺の影響で天台密教系の白山信仰に塗り替えられます。村々の白山神社では江戸時代中期まで天台宗の僧侶が神官を兼ねていました。また、千光寺を中心とする真言密教、南飛騨に多い禅宗なども栄えました。
やがて、江戸初期には照蓮寺が盛んに道場を建てて浄土真宗の布教に努め、飛騨は浄土真宗王国になっていきます。照蓮寺の血縁が絶えたのちは東本願寺高山別院が宗派を超えた崇敬を集め「仲間の御坊さま」と呼ばれました。
三木氏がほぼ飛騨一円を支配下に収め、高山に松倉城を構えたのも束の間、京都では織田信長の後継者を巡って秀吉派と反秀吉派の間に争いが起こります。三木自綱は越中の佐々成政と反秀吉連合を組みました。豊臣秀吉は越中佐々攻めの一環として、配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じます。
天正13年(1585)越前と美濃から飛騨に攻め込んだ金森軍は南北2方向から進撃し、高山市国府・広瀬城に籠もる三木自綱を降伏させました。その後、自綱は追放されて京都へ行き、そこで亡くなります。
一方、三木氏の居城・松倉城では、自綱の子、秀綱が徹底抗戦を続けていましたが、城兵の放火によって落城しました。三木秀綱と家族は北アルプスを越えて信州へ逃亡しますが、山中で土民の襲撃に遭って秀綱は自害、家族も殺害されるという悲劇がありました。
また、三木氏方の一宮国綱は飛騨国造以来の由緒ある飛騨一之宮社家の頭領で、山下城を構え一之宮郷・久々野郷などを支配する武人でもありましたが、金森氏に抵抗したことで社家の伝統は断絶させられています。三木自綱が反対派の国人勢力を攻め滅ぼしていたこともあり、金森氏は飛騨一国の支配体制を万全にしました。
豊臣秀吉は金森長近に飛騨を与え、ここから金森時代がはじまります。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で徳川方についた金森長近は、引き続き飛騨一国と美濃上有知(現在の美濃市)を拝領し、石高3万3千石の金森藩が成立しました。
金森長近は飛騨領有ののち、鍋山城などの試行錯誤を経て、かつて高山外記がいた天神山を高山城と定めました。また、築城にあわせて城下町を整備し、現在の高山の街並みをつくりあげます。
金森長近は近江の武将ですが、京都の文化に造詣が深い文人としても有名で、特に高山では京都を意識した街づくりが行われました。宮川を京の加茂川に見立て、城下町らしくない碁盤目状の通りを引き、東側の丘陵に金森家縁の寺院を集めて東山寺町としました。また、高山城の北には浄土真宗の大寺院・照蓮寺を建立して周囲を寺内町とし、民心の安定を図りました。
現在の春と秋の高山祭りも金森時代にはじまったものです。
また、高山の北には、金森長近の子、可重が増島城を中心とした古川の街並みをつくりました。古川も高山と同じく、京都を意識した碁盤目状の街区になっており、両者とも飛騨の小京都として知られています。
金森家からは、可重の子で宗和流茶道の創始者・金森宗和や、長近の弟で落語の創始者・安楽庵策伝など数々の文化人を輩出しました。その一方、高級な茶道具を所有するだけではなく、三代金森重頼は家宝「雲山肩衝の茶壷」を売って、飢饉の救援金に充てるなど、名君の多い家柄でした。
石高の少ない金森藩の財政を支えていたのが、飛騨の豊富な山林資源と、鉱山資源でした。金森氏の家臣・茂住宗貞は天才的な技術を使って金銀銅亜鉛の鉱脈を発見し、神岡を日本有数の鉱山に発展させました。神岡にあった屋敷跡に茂住の地名が残るほど栄華を誇ったといいます。しかし、宗貞の贅沢な生活は嫉妬や疑惑の対象となり、寛文8年(1668)高山城内で腹心の部下が殺害されると、身の危険を感じた宗貞は逃亡してしまいました。
元禄2年(1689)六代藩主金森頼ときは、江戸城で将軍徳川綱吉の側用人に大抜擢されます。しかし、将軍の意に合わず免職された上、領地も没収され元禄5年(1692)出羽上山へ国替えを命じられました。
徳川幕府は当時窮乏する財政状況を回復させるため、豊かな山林と鉱山を狙ったのだといわれており、それ以来、飛騨は幕府の直轄地となり、藩主のいない天領として明治維新まで続きます。
一方、出羽上山に移封された金森氏は、5年後には美濃郡上藩に転封します。
郡上藩の金森頼錦も幕府の重役に抜擢されましたが、江戸詰めの費用にあえぎ、農民への搾取を強めて有名な郡上一揆を引き起こしたうえ、その責任を問われて宝暦8年(1758)に廃絶されています。
元禄5年(1692)幕府は飛騨を直轄地にし、金沢藩に命じて高山城と城下の武家屋敷を取り壊します。
幕府は宮川の西にあった金森家下屋敷を陣屋とし、江戸から赴任した代官が飛騨の政治を取り仕切りました。高山陣屋は、明治以降も高山県庁、飛騨支庁、県事務所として使われ、270年もの間、飛騨地方の行政の中心地でした。
金森時代、増税のために机上の計算で石高の増加が行われ、飛騨は6万4千石といわれましたが、幕府は元禄検地を行って石高を現実的な4万4千石に戻した上、年貢の減税を行ったので農民に歓迎されました。
また、山林は幕府の重要な収入源だったので、林業に従事する山村には山方米の支給が行われました。
金森時代に主流だった上方文化に加えて、江戸の情報も入るようになり、高山祭りの豪華絢爛な屋台など、京都と江戸の文化を合わせた高山独特の文化が育ちます。
その文化を担ったのが、大名や幕府にまで金を貸していた「旦那衆」と呼ばれる豪商たちでした。高山近郊の農村の次男・三男だった男性が、農産物や材木の商い、酒造業から身を起こして成功したのが旦那衆です。屋号は出身地から取られました。
明治、大正を通じて大地主や企業家、鉱山経営者としても影響力を持ちましたが、第二次世界大戦後の民主化や地主解体によって姿を消しました。
幕府の任命した代官(後に郡代)には、飛騨中を歩いて郷土史の一級資料「飛州志」を書いた長谷川忠崇、飢饉救済のためにジャガイモ栽培を飛騨に導入し、現在でもジャガイモを指す方言「せんだいも」に名を残す幸田善太夫のように、任地の飛騨を愛し、人々に慕われた役人もいましたが、幕府をも揺るがす農民一揆を引き起こした者もいました。
明和2年(1765)第12代代官として大原彦四郎が着任しました。当時、幕府は財政がゆきづまっていたため、大原代官は年貢の前納や商人への御用金割り当て、金森時代からの地役人を外地へ転勤させるなど、人々の不満を招く政策をとりました。
中でも、乱伐によって山林が荒廃したことを理由に、森林伐採の中止と山方米の支給停止を決めたことは、山村の死活問題であるため、猛烈な反発を生みました。
さらに、農民に対しても厳しい検地を行ったため、ついに飛騨中を巻き込む農民一揆が起こります。これが大原騒動です。一揆は明和、安永、天明の3度、16年間にわたって続きました。
農民たちは年貢米の江戸送りに協力した人々の家や土蔵を襲い、検地の無効を京都の公家や江戸の幕府老中、勘定奉行所へ直訴したものの、打ち首になりました。
大原代官は飛騨283村の代表者を呼び出し、一揆は過激な扇動に乗せられたもので村々の総意ではない、と申し出させたため、若干19歳の本郷村善九郎を筆頭に立ち上がった農民たちは飛騨一ノ宮の境内で2ヶ月にわたる集会を開きます。
農民一揆に協力しない高山の町へ農産物や物資を売らない経済封鎖をかけた本郷村善九郎たちに対し、大原代官は近隣諸藩に鎮圧を要請し、農民13人を処刑、14人を流罪、数百人を入牢という厳しい弾圧を行いました。処刑される前に、本郷村善九郎が妻かよに宛てた辞世の句が残されています。
寒紅は無常の風にさそはれて莟みし花の今ぞ散りゆく 常盤木と思うて居たに落葉かな
農民たちの敗北によって検地が進み、飛騨は1万石増の5万5千石となり、その功績によって大原代官は郡代に昇進します。しかし、大原彦四郎の妻は農民へのひどい仕打ちを咎めて自殺してしまいました。
天明元年(1781)父親彦四郎の後を継いで飛騨郡代に就任した大原亀五郎は、年貢の減税分を農民から取り上げて私費にあて、天明飢饉に対して幕府から支給された救援金をも着服しました。さらに、独断で年貢減税を10年間返上させようとしたため、農民一揆が再燃します。
寛政元年(1789)幕府巡見使が行政事情の査察のため飛騨へ入国しました。農民を率いる大沼村忠次郎は巡見使に大原郡代の悪政を訴え、江戸でも幕府大老松平越中守に直訴しました。
ついに江戸で裁判が行われ、大原亀五郎は八丈島へ流罪、幕府勘定奉行や美濃郡代も処罰されるなど、農民側が大きな勝利を収めました。
円空上人は美濃国生まれの天台宗の僧侶で、仏像12万体の造顕を発願して全国を巡歴しました。
天和元年(1681)54歳ではじめて飛騨に入り、その後数回にわたって飛騨を訪れ、この地に1万体の円空仏を残したと伝えられます。荒削りで躍動感あふれる円空仏は、独特の暖かい微笑と不思議な魅力を持っています。円空が旅の先々で彫刻して人々に与えたもので、庶民的な仏として大切に守られてきました。好んで滞在した千光寺では、傑作の両面宿儺像の他、立木に仁王像を彫刻するなどの逸話を残しました。
ただし、白山を信仰する天台僧侶だった円空ですが、白山麓の白川郷は阿弥陀仏以外の信仰を排除する熱烈な浄土真宗地域であったため、ついに足を踏み入れることがなかったといわれます。
播隆上人は北アルプスの峰々を開山した僧侶です。笠ヶ岳を開山した高山宗猷寺の僧・南裔上人の後、登山道が荒廃していることを知った播隆上人は、上宝の岩窟で修行を重ね、文政6年(1823)地元の農民を引き連れて笠ヶ岳に登り、登山道を再興しました。
そのとき現れた御来光(ブロッケン現象)と、天を突く槍ヶ岳の雄姿に感動した播隆上人は、諸国を回って寄進を募り、文政9年(1826)に上高地から槍ヶ岳登頂に成功しました。その後も頂上に仏像を安置し、難所に鉄鎖を取り付ける、など登山道の整備を行い、北アルプス登山のさきがけとなりました。 いまでも、北アルプス飛騨側の開山祭は播隆祭と呼ばれています。
南の御嶽山では、昔から75日もの修行を納めた行者にしか登山が認められていませんでした。天明5年(1785)尾張の覚明行者は神官の反対を押し切って、水行だけの簡単な修行で木曽黒沢口から御嶽山に登り、広く庶民に信仰登山の道を開きました。
次いで覚明行者は飛騨小坂口の開山をめざしますが、山中で亡くなり、飛騨からの信仰登山は定着しませんでした。
山奥深い飛騨の地にあって、しかも鎖国していた江戸時代に、飛騨から海外に目を向けた人がいました。
下呂市湯之島に生まれた武川久兵衛は、江戸へ出て材木商で成功すると、蝦夷地と呼ばれた北海道に渡って飛騨屋を興し、木材切り出し事業に乗り出しました。元禄15年(1702)から四代90年余りにわたって松前藩の御用商人を務め、日本人で初めてロシアとの交易を行いました。しかし、酷使に耐えかねたアイヌ人が国後島で反乱を起こすと、松前藩は事件の責任を追及し、飛騨屋を蝦夷地から追放しました。 武川家に残る蝦夷地資料は当時の北海道を知るうえで重要なものです。
幕末、下呂市金山町の下原村に生まれた加藤素毛は、高山陣屋に勤めているとき、当時の飛騨郡代の子だった山岡鉄舟と知り合い、江戸や長崎を遊学したのち、山岡鉄舟のつてで万延元年(1860)に幕府遣米使節団に加わってアメリカに渡り、世界一周を果たしました。克明な海外日記を残しています。
パナマ地峡にて汽車に乗った際の句
「裂るほど車の音も暑さかな」
江戸時代末期、本居宣長は儒教や仏教に影響されない日本独自の文化を求めて国学を提唱します。
また、本居宣長門下の平田篤胤は極端な国粋主義と尊王思想を唱えて平田国学や復古神道を起こしました。平田国学の革命思想は幕府打倒の原動力となりますが、明治維新後の新政府は態度を豹変して西洋式近代化を推し進め、平田国学を信奉する志士たちは表舞台から排除されました。
「竹取物語」を考証した高山の国学者・田中大秀は本居宣長の弟子です。文化12年(1815)、江戸街道の脇にあった稲置森を、延喜式にある古社・荏奈明神であるとして再建し、その傍らに住居を定めました。彼は門下生に国学や和歌を教授し、その数は飛騨内外に300人を越えていました。大秀の蔵書は荏名文庫といい、高山市郷土館にあります。
明治7年(1874)、小説家・島崎藤村の父・島崎正樹が飛騨一之宮・水無神社の神官になります。
幕末から明治維新にかけての激動の時代を描いた「夜明け前」の主人公・青山半蔵は藤村の父親がモデルになっています。藤村の故郷にほど近い中津川周辺は特に平田国学が盛んで、苗木藩では明治維新の廃仏毀釈に当たって領内全ての仏教寺院を打ち壊し、住民を神道に改宗させるほどでした。 「木曽路はすべて山の中である」の有名な書き出しから始まる「夜明け前」は、幕末、尊皇攘夷を強硬に唱える平田国学に魅せられた馬籠宿の青年・青山半蔵が、大きな期待を持って迎えた明治維新の近代化に失望し、ついに発狂してしまう物語です。
明治時代、国家神道の枠組みから外れた平田国学の思想は神道系新興宗教に受け継がれました。そこでは神代文字で書かれたとされる様々な「古史古伝」が創作され、明治政府の正統な古事記・日本書紀いわゆる「記紀神話」とは異なる神話世界が描かれました。
なかでも、大正から昭和初期にかけて富山県出身の新興宗教家・竹内巨麿が発表した「竹内文書」は全国に大論争を巻き起こしました。竹内文書とは、南朝家臣・竹内家秘伝の古文書と称する膨大な文献ですが、その内容は奇想天外です。
超古代世界の中心は飛騨にあり、神武天皇は位山で即位したほか、古代シュメール・エジプト文明からモーゼ・キリストに至るまで超古代日本文明にルーツを持つ・・・といった超国家主義的な世界観が展開されていました。
戦前という時代の空気にマッチしたのか、竹内文書は軍人や政治家、実業家に大きな支持を受けました。
しかし、保守的な国家神道の立場から「記紀神話」を蔑ろにする不敬文書として非難され、竹内巨麿とその教団は弾圧を受け、裁判で偽書と断定されます。この事件は、「神国日本」という「虚構」を守るために、神がかり的な誇大妄想が弾圧されたものですが、同時期にナチスドイツのゲルマン民族「神話」がオカルト的でさえあったことを思えば、むしろ日本人はバランス感覚があったのかもしれません。
竹内文書の現物は戦災で焼け、戦後はGHQから超国家主義的思想だと弾圧されて葬り去られます。その一方、竹内文書の世界観に影響されたいくつかの新興宗教団体は飛騨高山や位山を神秘的な聖地と見做し、地元とは関係なく巨大な宗教本部までできてしまいました。司馬遼太郎は「街道をゆく」シリーズの「飛騨紀行」で、押し寄せる信者団体の観光バスに苦言を呈しています。
また、UFOや日本ピラミッド、古代文字ペトログリフなど、疑似科学やトンデモ説の好事家の関心を集め、最近ではスピリチュアルブームやパワースポットブームで再び注目を浴びていますが、どれも飛騨のもともとの信仰や伝統とは関係がないものです。
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