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飛騨のシンボルといえる合掌造りですが、白川郷の一部に見られるにすぎません。
白川郷の集落は平家の落ち武者の末裔で、大家族制度も独特の合掌造りも平安時代以前の風習を残すもの、という説があります。しかし、実際には中世以降の一向一揆で、北陸、特に越前から庄川の谷間に流れ込んだ浄土真宗門徒の影響が強いと思われます。合掌造り民家は養蚕のために江戸時代中期ごろから作られました。
生活の場としてまとまった合掌造り集落が残っているのは、白川郷荻町の約130棟が最大です。その他に、五箇山合掌集落として富山県相倉集落、菅沼集落にも十数棟の合掌造り民家が生活に使われています。
飛騨の多くの農村がクレ板葺きの切妻屋根であるのに対し、豪雪地帯の庄川流域、上白川郷・荘川には「荘川造り」と呼ばれる茅葺き寄棟民家があり、同じく豪雪地帯の飛越国境の河合、宮川、神岡辺りでは茅葺き入母屋民家が分布していました。
江戸中期に現金収入としての養蚕業が普及すると、農地が少ない下白川郷では養蚕スペースをなるべく広く取るために、3階建て、4階建ての大型の合掌造りが次々に建てられました。また、長男しか正式な結婚を許されず、他の兄弟は妻問い婚で分家ができない独特な制度も、農地と労働力を確保する方法として定着し、明治時代中期まで続いていました。
日本の伝統的な民家の中でも特異な発達を遂げた白川郷の合掌造りを見たドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、「これはスイスかスイスの幻想だ」と絶賛しましたが、白川郷では御母衣ダムの建設によって多くの合掌造りが湖底に沈み、山奥の加須良集落のように過疎で集団離村するケースも相次ぎました。
現在では世界遺産に指定された荻町集落に多くの合掌造り民家が保護されている他は、白川郷合掌造り民家園や高山市の飛騨の里、下呂温泉合掌村などに移築されて見学用の保存家屋になるか、店舗として全国に散らばってしまいました。
合掌造りというように、本を開いて三角形に建てたような白川郷の切妻合掌造りの屋根は45〜60°という急勾配の茅葺で、屋根を支える構造には釘を一本も使わず、木を組み合わせて縄やネソという木の弦で縛る方法をとっています。これは雪の重みを分散させる豪雪地ならではの工夫です。
また、南北に面して建っており、風の抵抗を最小限とし、さらに夏は涼しく、冬は暖かく保温できるような配慮がされています。
合掌造りの屋根の葺き替えには、金額に換算して数千万円という莫大な手間がかかります。そこで、白川郷では作業にあたって村人が相互に協力し合う「結」の仕組みが発達しました。
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