Panorama飛騨 飛騨路と北アルプスの絶景地ガイド

 
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中山道美濃路


 恵那市の大井宿から御嵩町の御嶽宿にかけて、中山道美濃路は標高300〜700m前後の東濃丘陵をいくつもの峠を越えていく山道になります。
 明治時代に入り、鉄道や国道は名古屋市から土岐川に沿った旧下街道沿いに開発されたため、この一帯は特に昔の面影をよく残したエリアで、大湫宿、細久手宿、御嶽宿などをつないで歩く街道は東海自然歩道に指定され、江戸時代の旅人の気分を味わうハイキングが楽しめます。

 御嶽宿から伏見宿を経て、中山道三大難所のひとつとされた木曽川の太田の渡しを越えると美濃加茂市の太田宿、その隣は各務原市の鵜沼宿で、近代化された都市の中にも、一部に宿場町の面影を残す街並みがあります。

大湫宿

 大湫宿は瑞浪市の山間地にあります。江戸時代は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒がありました。本陣は23室212畳という広大なものでしたが、現在は廃校になった小学校の敷地です。脇本陣(保々家)は現存していますが非公開です。
 明治時代に土岐川沿いに名古屋からの国鉄中央線や国道19号線が整備され、交通の主流になると、高原の丘陵地帯を縫って続く中山道は廃れてしまいました。しかし、そのため江戸時代の名残を留める街並みがそのまま残されました。
 木曽路妻籠宿や馬籠宿のような観光地ではありませんが、旅籠の面高屋が交流施設として、中山道美濃路を訪ねる旅行者にも開放されています。


天狗塚展望台

 大湫宿から細久手宿の間には、中山道美濃路でもっとも標高の高い琵琶峠の難所がありました。峠道には石畳が今も残っています。その中山道から少し入った日吉マレットゴルフ場や陶芸の里の脇に、天狗塚展望台の看板があります。よく整備された登山道を登ること10分で、木曽川の断崖上にある山頂に到着です。
 東濃高原を木曽川が深く浸食したV字状の深沢峡まで、高度差は350mあり、遠くの笠置ダム堰堤がおもちゃのように見えます。深沢峡は、昭和30年代には景勝地として遊覧船が運航され、観光客で賑わった時代がありましたが、現在では道路すら崩壊し、ほとんど人が訪れない秘境の地に戻っています。


細久手宿

 細久手宿は瑞浪市の山間にあります。江戸時代には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒がありました。隣の大湫宿と共に、明治時代以降の交通網に取り残された宿場町ですが、残念ながら当時の面影を留めるものはほとんど残っていません。
 江戸時代初期の中山道開設当初、大湫宿から御嶽宿までの距離が17kmもあったことから、尾張藩によって整備され、正式な宿場に格上げされました。そのため、唯一残る本陣の大黒屋は、尾張徳川家の指定宿でした。現在でも営業しています。

謡坂

 細久手宿から西の京方へ向かうと、中山道美濃路は険しい山道になり、坂道の辛さを歌いながら紛らわせた「謡坂」、牛馬の鼻が地面に擦れるほど急な「牛の鼻欠け坂」といった難所を、一気に標高差300mも下って御嶽宿に入ります。
 謡坂の頂上にある江戸時代の民家(外観のみ)は、安藤広重が描いた浮世絵「木曾街道六拾九次」の御嶽宿のモデルになった木賃宿だとされます。木賃宿は自炊用の薪の代金だけで泊まれた簡易な宿で、往時のままの佇まいを見せています。

七御前キリシタン遺跡と幸福寺跡

 謡坂がある御嵩町小原地区は、ありふれた山村風景が広がるのどかな集落ですが、昭和50年代に隠れキリシタンの史跡が相次いで発見され、話題となりました。
 集落の外れに「七御前」と呼ばれる古い五輪塔があり、謂れは不明なものの「貴人の墓である」「触ると祟りがある」と噂されて住民も近づきませんでした。ところが、道路工事のために五輪塔を発掘したところ、十字架やマリア像などおびただしいキリシタンの信仰遺物が発見されました。
 現在はマリア像が立ち、毎年キリスト教各宗派の合同で供養祭が営まれます。

 それにしても、江戸時代に、徳川幕府の監視が厳しい中山道のすぐ脇で、まとまったキリシタン信仰が隠し通されてきたことは驚きです。
 この地方にはキリスト教を容認した織田信長の家臣が多く、岐阜城下の信者たちが移住したのではないか、と考えられます。また、小原地区には、1700年代に当時の村人が一夜のうちに姿を消し、現在の住民は、後に尾張地方から集団移住した子孫であるとの伝承があり、檀家の集団失踪によって廃寺になった山中の「幸福寺」跡には、なんと「南無阿弥絶佛(仏を絶つ)」の石碑が現存するといいます。
 仏教寺院に偽装したキリスト教会ではないか、と推測され、歴史ミステリーを秘めたエリアです。

御嶽宿

 御嶽宿は可児市の西、可児郡御嵩町にあります。江戸時代には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒がありました。東濃山地と濃尾平野の境に位置する軍事的要衝として、徳川家康が関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)に中山道制定と同時にいち早く宿場町を整備しました。古代から東濃地方の文化・経済の中心地としてたいへん賑わい、本陣・野呂家(外観のみ)や商家・竹屋など往時の面影を残しています。
 また、恵那・大井宿から大湫宿と細久手宿を経由して御嶽宿に至る中山道美濃路は、険しい山道が続く区間のため、江戸時代の石畳や街道がそのまま残されており、東海自然歩道のなかでも人気のハイキングコースです。

中山道みたけ館・ミュージアム

 御嵩宿の入口・蟹薬師願興寺と宿場町の中間にあり、本陣の建物に隣接した図書館兼郷土資料館です。古代から東濃地方の文化・経済の中心地であった御嵩の歴史と、中山道往来の様子をわかりやすく展示しています。
 なかでも、江戸時代に信仰を隠し通したキリシタン遺跡から発掘された十字架やマリア像などの実物展示が見どころです。

10:00〜18:00 休:月 無料 電話:(0574)67−7500

商家・竹屋

 中山道みたけ館と本陣のとなり、御嶽宿の豪商・竹屋の母屋、茶室、土蔵を無料で公開しています。本陣の分家であった野呂家は竹屋の屋号で江戸時代から昭和まで、御嵩を中心に金融業、鉱山経営、生糸・木材・木綿問屋のほか、明治維新後は名古屋で不動産経営、アメリカ製自動車の輸入業まで幅広く事業を展開していました。

10:00〜18:00 休:月 無料 電話:(0574)67−7500

蟹薬師願興寺

 天台宗の祖・最澄大師が東国を巡った際に、この地に貧民救済のための医療施設・布施屋を設け、薬師如来を安置しました。その後、一条天皇の皇女・行智尼が滞在して祈願したところ、池の中から数千の蟹に背負われた一寸八分の金の尊像が出現したことから、朝廷から勅願寺に列せられ、七堂伽藍が建立されたと伝わります。
 このため、蟹薬師と称し、可児地方の地名の由来になりました。本堂のほか、本尊の薬師如来など24体の仏像が国指定重要文化財に指定されています。

境内自由 仏像拝観は電話:(0574)67−0386

鬼岩公園

 可児郡御嵩町と瑞浪市、土岐市が交わる可児川の上流に、巨大な花崗岩が数千万年かけて浸食された奇岩怪石が織りなす絶景ポイントがあります。
 平安時代末期、関の太郎と恐れられた悪党が岩山を根城に東山道を荒らし、後白河法皇の命を受けた武士・纐纈源吾能康によって討ち取られました。鬼のような悪党と、奇怪な景観が重なって「鬼岩」と呼ばれるようになったと伝わります。

 岐阜市と土岐市をつなぐ国道21号線の鬼岩ドライブインから国道を渡ると、平岩川に沿った渓谷ルートと、両岸の巨岩を渡り歩く稜線ルートが2つ、計3本の遊歩道が延びています。どれも距離は長くありませんが、稜線ルートは高低差が大きく急峻です。


 公園のメインであった岩屋くぐりは台風で荒廃して現在は閉鎖されており、巨石のごろごろした渓谷を進むと終点に一周8qの松野湖があります。両岸にそびえる岩の稜線に登るルートがあり、展望岩、臼岩、蓮華岩などと名付けられた高さ100mもの花崗岩の上に立つと、足元まですっぱりと切れ落ちるスリルを味わえます。
眺めは最高ですが、柵は一切ないため、安全に注意しましょう。


鬼岩温泉
 鬼岩公園の入口にある旅館数軒の小規模な温泉地です。泉温17℃・硫黄化水素放射能泉。
 傷ついた白鷺が湯あみをしているのを僧侶が見つけた開湯伝説があります。

太田宿

 太田宿は美濃加茂市の中心市街地の一角にあります。江戸時代には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒でした。太田宿にあった木曽川の渡しは、中山道のなかでも「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われた三大難所のひとつで、川越えに非常に苦労したことが伺えます。
 太田宿は、木曽川の渡し場に面して発達し、何度も水害に遭いましたが移転しませんでした。しかし、明治時代以降に、洪水の被害が少ない山手側へ町が発展していったので、現在の宿場町界隈は静かな裏通りになっています。


太田宿中山道会館

 中山道太田宿の歴史展示と、物産販売、飲食店の複合施設です。
 駐車場中央に立つエノキの巨木が印象的です。展示館では実物大で宿場町が再現され、旅籠を模したブースの中で中山道に関する歴史資料の展示などを行っています。
 旧本陣跡に向かい合わせですが、本陣門を残すのみで、広大な敷地は御代桜酒造や駐車場などになっています。

9:00〜17:00 休:月 無料 電話:(0574)23−2200

太田宿脇本陣林家住宅

 中山道会館のとなり、母屋と隠居屋敷が続きになっている間口の大きな町家建築が、江戸時代に太田宿脇本陣と庄屋を務めた林家です。尾張藩の代官所の指揮下で太田宿の行政事務を執り、質屋や味噌醸造などを幅広く営んでいました。
 江戸時代の大規模商家建築をそのまま残した貴重な町家として、国重要文化財に指定され、隠居屋敷を公開しています。なお、母屋は住宅として使用されています。

無料

小松屋と祐泉寺

 小松屋は卯建が上がった町家で、かつては伊勢詣での参拝客の定宿でした。
現在は展示施設兼休憩所として開放され、太田宿縁の人々などを紹介しています。
 小松屋のとなりは祐泉寺です。太田の渡しにあるお寺らしく、山門は宿場町ではなく、木曽川を向いています。ここに槍ヶ岳を開山した播隆上人が晩年滞在しました。
祐泉寺の前には小さな枡形のクランクがあり、宿場町らしさを残した一角です。

無料

鵜沼宿

 鵜沼宿は木曽川をはさんで犬山城に向かい合う宿場町です。各務原市に属します。
江戸時代には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒がありました。交通量が激しい国道21号線のほんのすぐ脇に位置するにも関わらず、宿場内は江戸時代の雰囲気をよく残しています。観光客向けの商業施設はありませんが、町家館武藤家や復元された脇本陣など、みどころが多い宿場町です。

鵜沼宿町家館・武藤家

 鵜沼宿の東側(江戸寄り)の入口にある大きな町家建築です。
 江戸時代は武藤家が旅籠を営業していましたが、明治時代に鉄道が開通すると宿泊客が減り、郵便局業務を請け負ってきました。明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊しているので、現在の建物は明治時代に建てられたものです。
 中では鵜沼宿や武藤家に関する資料を展示しています。

9:00〜17:00 休:月、年末年始 無料 電話:(058)379−5055

鵜沼宿脇本陣

 中山道鵜沼宿の脇本陣・坂井家は、明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊しました。
平成22年に鵜沼宿の再生事業の一環として、当時の図面を基に、江戸時代のままの姿で復元されたものです。
大名専用の門と式台を設け、大名が宿泊する上段の間には、庭をはさんで専用の風呂と雪隠が設けられて非常に豪華な造りになっています。まだ木の香も新しい町家建築ですが、一見の価値があります。


9:00〜17:00 休:月、年末年始 無料 電話:(058)379−5055


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