Panorama飛騨 飛騨路と北アルプスの絶景地ガイド

 
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松倉山ハイキング


 松倉山は、飛騨の里の裏山にあたる松倉山の山頂に残る三木自綱の城跡です。
 千島町と飛騨の里をつなぐ舗装林道の峠に駐車場やトイレ、東屋が整備された広場があり、そこから遊歩道を10分ほどで本丸跡に達します。さえぎるもののない山頂からは、高山市街地越しに乗鞍岳や北アルプスの山並みが見渡せます。


 南北朝時代、南朝方についた飛騨北部に対して、飛騨南部では北朝方・室町幕府が京極氏を守護職に任命しました。しかし、それは名目ばかりで、実際には下呂に拠点を置く三木氏や、高山・天神山城に拠る高山氏が各地を取り仕切っていました。
 三木氏の頭領・三木直頼は、大永元年(1521)天神山城の高山外記を破り、高山盆地を手中に収めるとその子、三木良頼は古川盆地で細々と続いていた姉小路家を乗っ取って、自らを京都の名門・姉小路中納言と称しました。
 その子、三木自綱も国司姉小路を名乗り、越後の上杉謙信、美濃の斉藤道三、のちに美濃尾張の大勢力・織田信長と同盟して念願の飛騨統一をめざします。


 三木氏がほぼ飛騨一円を支配下に収め、高山に松倉城を構えたのも束の間、京都では織田信長の後継者を巡って秀吉派と反秀吉派の間に争いが起こります。
 三木自綱は越中の佐々成政と反秀吉連合を組みました。豊臣秀吉は越中佐々攻めの一環として、配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じました。

 天正13年(1585)越前と美濃から飛騨に攻め込んだ金森軍は南北2方向から進撃し、高山市国府・広瀬城に籠もる三木自綱を降伏させました。その後、自綱は追放されて京都へ行き、そこで亡くなります。
 一方、三木氏の居城・松倉城では、自綱の子、秀綱が徹底抗戦を続けていましたが、城兵の放火によって落城しました。三木秀綱と家族は北アルプスを越えて信州へ逃亡しますが、山中で土民の襲撃に遭って秀綱は自害、家族も殺害されるという悲劇がありました。


 そんな歴史を秘めた松倉城址から尾根道を600mで、松倉観音堂があります。
 ここでは、毎年8月に有名な松倉絵馬を奉納し、各家庭の玄関に飾る絵馬を売る松倉絵馬市が開かれます。
 さらに丘陵地帯の松林を進むと、むかしスキー場だった原山の頂上に出て、ゲレンデ跡沿いに遊歩道を下ると原山市民公園です。


 原山市民公園は、松倉山の峰続きにある原山の麓に広がる市民公園です。
 旧原山市民スキー場の大草原が高山市の合併記念公園のひとつとして整備され、家族連れやペットと一緒に訪れる人に憩いの場を提供しています。
斜面には人工芝でできたスロープがあり、ちょっとしたスリルとスピードが味わえるため子どもたちに大人気です。また、広い芝生のドッグランもあります。


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