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飛騨の北端、富山からの玄関口に位置する町、飛騨市神岡町は1000年以上の歴史を持つ鉱山の町でした。いまも町の北には赤茶けた神岡鉱山の山肌が見えます。
現在では神岡鉱山が操業を停止し、神岡鉄道も廃線になるなど、厳しい時代の波が押し寄せていますが、時間が止まったような飛騨神岡の街並みには、なつかしい昭和の雰囲気がそのまま残されています。
飛騨神岡の市街地の北東、街並みを見下ろす城ケ丘の高台にあります。
永禄7年(1564)武田信玄が越中の上杉勢を攻めるために配下の武将・山県昌景の軍勢を飛騨に侵攻させ、神岡に東町城を築きました。武田軍についた飛騨北部の支配者・江馬時盛、輝盛父子は、この城を拠点に飛騨統一を夢見ましたが、南の三木氏と戦って滅亡、さらに金森藩領になった後の元和元年(1615)江戸幕府の一国一城令によって取り壊されました。
現在の神岡城は、昭和45年(1970)に三井金属鉱業の神岡鉱山創業百周年記念として、越前の丸岡城をモデルに復元された模擬天守です。かつて東町城、あるいは江馬館と呼ばれた城には天守閣はありませんでした。
内部では武具・刀剣などの歴史資料などを展示しています。
4月〜11月 9時〜17時 450円 無休 (0578)82−0253
神岡城・鉱山資料館・旧松葉家の三館で高原郷土館といいます。
元禄時代の手堀で金や銀を採鉱していたという頃の道具から、近代化された鉱山に変わるまでの採鉱用具が展示されています。採鉱から製品までの作業工程が解説してあり、神岡鉱山の歴史が分かります。
神岡町割石から移築した明治時代の茅葺民家・旧松葉家(県重要文化財)の内部には、江戸時代から昭和初期まで使われた山村の民具や農具などを展示しています。
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神岡城から市街地を眺めると、高原川をはさんだ丘陵にあります。
神岡城主・江馬氏が守護仏として厚く信仰していた観音菩薩の霊場として開かれました。観音山中腹に立つ大達磨像は、高さ8.9m、幅3.6m、重さ8トンの青銅製で、立ち達磨像としては日本一の大きさです。
9時〜16時 拝観無料 (0578)82−1210 |
飛騨神岡の中心部を南北に走る高原川、なかでも藤波橋と上流の神岡大橋の間には両岸の断崖を縫って流れる深い峡谷が続き、両橋の間が八丁あることから「藤波八丁」と呼ばれる景勝地になりました。
高原川沿いの散策路があり、四季折々に美しい渓谷美を眺め、夏はゲンジボタル、秋には紅葉が楽しめます。
飛騨神岡は知る人ぞ知る湧水の里。町の正面にそびえる大洞山の山麓からこんこんと湧きだしています。
この湧水は年間を通して11℃前後の水温を保つため、夏は冷たく冬暖かいのが特徴です。いたるところに大洞湧水を利用した共同水屋が設置され、洗い物や野菜や花を浸すなど、昔から生活用水として親しまれています。
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飛騨神岡の鎮守社で、古い歴史を持っています。
毎年4月24日と25日に行われる神岡祭は、大津神社、朝浦八幡宮、白山神社の合同例祭で、高山祭、古川祭とともに飛騨三大祭に数えられ、神岡に春を告げる祭りです。
笛、太鼓、鉦を打ち鳴らす祭囃子の中、進路を清める「猿太彦」を先頭に、千人以上が参加した祭りの大行列が続きます。 |
2008年に廃線になった旧神岡鉄道の2.9kmの区間の線路を利用して、トロッコに固定されたマウンテンバイクで走ります。鉄道ファンならずとも、トンネル、鉄橋、駅が連続して現れるサイクリングは童心に返って楽しめます。
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泉質:単純硫黄泉 泉温:41℃
市街地の北部、国道41号線の高台にある昔ながらの雰囲気の立ち寄り温泉。昭和51年(1976)に、鉱石探査中の地下850mから突然高温の温泉が噴出しました。
昭和54年(1979)老人福祉センター割石温泉としてオープンし、泉質の良さと手軽な入館料から地元の人々に愛されてきました。誰でも利用可能です。
10時〜21時 400円 休:月 (0578)82−0988 |
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飛騨神岡郊外の吉田地区の高台にあり、北アルプス笠ヶ岳を望む浄土真宗の古刹です。
浄土真宗3世・覚如上人の直弟子であった願智坊覚淳が飛騨へ布教に入り、この地にお堂を建てて住み、常蓮寺の開基になりました。そのため、飛騨の浄土真宗発祥の地といわれています。 |
この寺には聖徳太子自作と伝わる聖徳太子像が安置されています。かつて数奇な運命を辿って各地を転々とし、越中八尾の聞名寺に安置された頃、飛騨では焼岳の噴火や冷夏などの災害が続き、高原郷一帯も大飢饉に見舞われました。
そこで農民たちは常蓮寺に聖徳太子像を移すように願い出て、寛永5年(1628)無事に像が奉還されたため、これを祝って夜通し踊り続けました。
いまでも毎年7月24日の晩に、300年以上踊り継がれる太子踊りが奉納されます。
飛騨神岡の市街地の東に連なる山々の向こう、標高1000mの高原に点在する7つの集落をまとめて山之村といいます。北アルプスの薬師岳や北之俣岳をあおぎ、四方を山に囲まれて、下界と断絶した秘境の生活が営まれてきました。
険しい峠道を越えると、のびやかな丘陵地がうねる高原盆地が広がっています。集落には茅葺屋根の民家があり、丘を縫って自然のままの川が流れる別天地です。
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飛騨神岡の市街地の北、国道41号線から高原川をはさんだ対岸一帯には鉱山関係の工場群が並びます。
神岡鉱山の歴史は古く、すでに養老年間(717〜23)には黄金を産出して朝廷に献上したと伝わります。本格的な採掘は、天正17年(1589)飛騨を領有した金森長近が越前から茂住宗貞を呼び寄せ、金山奉行として鉱山開発を推進させてからです。
茂住宗貞は鉱山開発に天才的な能力がありましたが、贅沢な生活から妬みを買うことになり、慶長12年(1607)主君が没すると迫害を恐れて姿を消しました。城郭のような居館があった場所には茂住の地名が残っています。
飛騨が天領になったのも、神岡鉱山をはじめとする鉱山資源の豊かさに目を付けたからだといわれます。
明治7年(1874)三井組(後の三井金属工業)が神岡鉱山の経営に着手すると、大資本による採掘、精錬の近代化が進められました。
戦前、戦後と時代を通して発展し、日本を代表する非鉄金属鉱山として戦後の高度成長を支えましたが、一方で、高原川へ流した排水に含まれるカドニウムが神通川下流の富山県の人々に深刻な公害病「イタイイタイ病」を引き起こしました。
その後、亜鉛などの輸入価格が下がって日本国内の鉱山は採算がとれなくなり、神岡鉱山も採掘をやめて輸入鉱石の精錬を行うようになりました。さらには、鉱石を運んでいた神岡鉄道も平成18年(2006)に廃線になりました。
一方、閉山となった坑道を利用して作られた宇宙線観測施設「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」は、微量の素粒子ニュートリノの検知に成功し、平成14年(2002)東京大学の研究者小柴昌俊教授のノーベル賞受賞に貢献しました。
スーパーカミオカンデに設置された超微弱光感知装置の実物は、道の駅宙ドーム神岡にモデルとして展示されています。
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