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飛騨古川は山国・飛騨国にあって広い盆地であることから、古代から開けていたと思われます。白鳳時代には古川盆地に仏教寺院が8ヶ寺あり、相当早い時期に仏教文化を受容していました。
元弘3年(1333)後醍醐天皇の建武新政により復活した国司制度は、全国ではあっという間に崩壊した一方で、飛騨では奇跡的に生き延びました。南北朝時代、飛騨には公家の姉小路氏が派遣され、古川盆地に居館を構えます。
当時の国司は京都にいて任地には代官を派遣するのが慣例でしたが、姉小路氏は飛騨に土着し、南朝方の有力勢力として、北朝方室町幕府が飛騨守護職に任命した京極氏に対抗しました。
建徳2年(1371)南朝方の求めに応じて姉小路家綱は弟の尹綱と共に越中国に出兵しましたが、敗れて京都へ帰ります。残された尹綱は応永18年(1411)室町幕府の差し向けた飛騨守護・京極高員の大軍と戦って死亡、姉小路氏は小島・向小島・古河の三家に分かれました。これを応永飛騨の乱と呼びます。
しかし、その後も姉小路氏は飛騨国司を名乗り続け、古河家・姉小路基綱は歌人として、京都にまでその名が知れ渡っていました。武人としても有能で、室町幕府を二分した応仁の乱に呼応し、文明飛騨の乱を起こして西軍方で参戦しています。
一方、北朝方京極氏の家臣から飛騨南部に台頭してきた三木氏は、天神山城の高山外記を破って高山を手中に収めると、三木良頼が古川盆地で細々と続いていた姉小路家を乗っ取って、自らを京都の名門・姉小路中納言と称しました。その子、三木自綱も姉小路を名乗り、飛騨統一をめざします。
戦国時代、神岡を拠点に高原川沿いの領主として自立していた江馬氏は、甲州・武田氏の勢力下に入ると飛騨の覇権を巡って三木氏と対抗しました。
天正10年(1582)三木氏の後ろ盾だった織田信長が本能寺の変で討たれると、好機と見た江馬輝盛は大坂峠を越えて南進し、高山市国府で三木・小島・牛丸の連合軍と激突しました。しかし、この八日町合戦では三木自綱が鉄砲を使った戦いで勝利を収め、飛騨をほぼ統一しました。
その数年後、三木自綱は豊臣秀吉に抵抗して、豊臣家配下の武将・金森長近の侵攻に遭い滅亡します。金森長近は飛騨高山の街づくりを行う一方、長近の子、可重が増島城を中心とした古川の街並みをつくりました。
古川も高山と同じく、京都を意識した碁盤目状の街区になっており、両者とも飛騨の小京都として知られています。
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