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乗鞍岳の南に女工哀史で知られる野麦峠があります。
飛騨川の上流から北アルプスの尾根を越えて信州に通じる峠で、標高1672m、飛騨高山と信州松本を結ぶ野麦街道きっての難所といわれました。
古くは鎌倉街道、江戸街道として、飛騨と関東方面を結び、高山へ赴く幕府の役人も通ったメインルートでもありました。また、越中富山の寒ブリがこの峠を越えて運ばれ、信州で「飛騨ブリ」として珍重されました。
しかし、野麦峠を最も有名にしているのが、明治から大正にかけて、貧しい飛騨から信州の製糸工場へ、峠を越えて出稼ぎに行った「糸引き工女」の悲劇でしょう。鉄道開通以降、交通網が整備されていく中で、野麦峠は熊笹に覆われた静かな山道になりましたが、雄大な乗鞍岳の風景だけは変わっていません。
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乗鞍岳の南西斜面にある広大な高原です。
標高1600m、ゆるやかな起伏が広がる高原からは、間近に乗鞍岳の山頂部と、南に大きな裾野を広げた御嶽山を望むことができます。また、白樺林の中に咲くレンゲツツジは県の天然記念物になっています。
高度経済成長期に別荘地開発が行われ、現在では高原中央部を広大な「無印良品南乗鞍キャンプ場」が占めています。
千町ヶ原を経て乗鞍岳への登山道もありましたが、子の原高原への立ち入りも含めて、無印良品の会員以外は入山禁止になっています。(ゲートあり)
無印良品南乗鞍キャンプ場(0577)59−2656 |
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高山市高根町の中心集落・上ヶ洞の入口から、塩沢川に沿って子の原高原方向へ向かいます。途中で湯元の看板に従って林道を谷底へ下りてゆくと、塩沢川の畔に野趣満点の露天風呂が現れます。
すぐ横に湯元山荘という無人の建物がありますが、現在は使われていないようです。自噴する温泉は、ここから上ヶ洞の塩沢温泉七峰館へ引湯されています。
鉄分が酸化して茶褐色に濁った含二酸化炭素泉、泉温37℃とややぬるいため、夏場以外の入浴はちょっと厳しいでしょう。
大自然に囲まれた露天風呂は、地元の方によって清掃されています。マナーを守って入浴しましょう。
入浴無料 |
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塩沢温泉湯元から引湯されている1軒宿の温泉。
泉質は含二酸化炭素泉で、糖尿病や通風に効果があるとされています。七峰館の名は、飛騨川の対岸にそびえる髭多山の七つの岩峰からつけられました。
髭多山は高い山ではありませんが、垂直にそそりたつ岩に松の木が茂り、霧が湧くと中国の山水画を思わせる景色になります。
(0576)59−2326 |
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髭多山をめぐる飛騨川には、巨大な高根第一ダムの堰堤が築かれ、要塞のようなコンクリート壁が迫っています。国道からダム展望台に階段で上がれますが、真下にダム湖が見えて、足がすくみます。
飛騨川がダムでせき止められた高根乗鞍湖は紅葉が美しいポイントです。 |
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高根乗鞍湖の中間、高嶺大橋で国道361号線と別れ、県道を野麦峠へ向かいます。
最初の集落が阿多野郷です。民家の点在する谷間の奥に乗鞍岳がそびえ、その山頂まで手が届きそうな感じがします。飛騨の中でも、こんなに3000mの頂上を間近に眺められる集落は他にありません。 |
阿多野郷集落の奥にはアイミックス南乗鞍キャンプ場があり、乗鞍岳の登山口になっている他、ダナの滝や、レンゲツツジの花が咲く神立原高原への遊歩道があります。
(0577)59−2727
阿多野郷と野麦集落をつなぐ寺坂峠からは、雄大な御嶽山の姿を遠望できます。
乗鞍岳のふもと、標高1300mの野麦はかつて宿場の集落でした。 飛騨の中でも最も貧しい生活に苦しんできた飛騨川上流の村々では、数十年に一度、熊笹が麦の穂に似た実をつけると、これを野麦と呼んで収穫しました。野麦の実る年は凶作のことが多いので、飢饉をしのぐ大切な食料でもありました。現在は野麦は静かな高原野菜の村になっています。
旧野麦分校の校舎を改築した宿泊研修施設の「野麦学舎」では、古い板張りの教室に机や椅子がそのまま使われています。隣接する「野麦の館」は、一般の宿泊や食事ができます。(0577)59−2611
集落の高台にある「野麦オートビレッジ」は、標高1400mのオートキャンプ場。高原からは、乗鞍岳と御嶽山を見晴らすことができます。(0577)59−2577
雄大な乗鞍岳をあおぐ熊笹に覆われた静かな峠です。
かつて工女たちが雪の中を必死の思いで越えた街道は、自動車が走る舗装道路になりましたが、それでも野麦峠までの道のりが遠く、険しいことに変わりがありません。
野麦峠一帯には、資料館の「野麦峠の館」、宿泊ができる「お助け小屋」、政井みねの像、乗鞍岳を水面に映す峠の池があります。
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明治時代、野麦峠を越えて行った糸引き工女たちの道のりや歴史を、映像や展示で紹介しています。
飛騨の山村の生活や森林での労働の歴史なども、仕事道具や民具を展示して解説しています。入口正面のホールでは、野麦峠の四季をワイドスクリーンで上映、この他、全国の主要な峠にまつわるエピソードや風景も紹介しています。
屋上は広い展望台になっており、目の前に雄大な乗鞍岳を一望することができます。
5月〜11月 9時〜16時 500円
(0577)59−2820 |
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明治時代、野麦峠にはお助け小屋があり、峠の婆と呼ばれるお婆さんが食事や宿を提供していました。
野麦峠が忘れられていく中で、お助け小屋も朽ち果ててしまいましたが、昭和45年(1970)、ふもとの野麦集落から宿場の民家を移築して復元されました。
食事、宿泊、みやげ店として営業しています。
5月〜11月 (0577)59−2409 |
明治時代、外貨獲得のための産業振興が図られる中で、発展していったのが製糸業でした。生糸は、その原料の蚕から技術まで、全て国内で自給できるためです。その中心地は長野県諏訪地方にあって、大規模な製糸工場が次々に作られました。
明治中頃から飛騨の貧しい農村の娘たちが長野県の製糸工場へ出稼ぎに行くようになりました。家計を助けるために12歳から工女の出稼ぎに行ったといいます。
「工場づとめは監獄づとめ、金のくさりがないばかり」
と嘆かれた製糸工場の労働は、重いノルマが課せられたきついもので、過労のため倒れる者が後を絶ちませんでした。
明治42年11月、岡谷山一製糸工場から「みね病気ひきとれ」の電報が飛騨・河合村の実家に届きました。兄が急いで工場に駆けつけたときには、工女の政井みねは腹膜炎で重症でした。兄の背中に背負われて野麦峠にたどり着いたみねは、「あー飛騨が見える、飛騨が見える」と言って息絶えました。
冬も間近い雪の乗鞍岳が、晩秋の陽に美しく夕映えていました。
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