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白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住んでいたのか、詳しいことは分りません。
最も古い記録は、奈良時代、飛騨の匠の記録に、馬狩村の出身者と思われる名前が見られます。有名な伝承では、源平合戦の初期、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたといいますが、伝説の範疇を出ません。
白川郷がようやく歴史に登場するのは鎌倉初期の建長5年(1253)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。
その頃、白川郷をはじめ飛騨の多くは、美濃・白山神社長滝寺の社領地で、白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にありました。初め美濃国で布教を試みた善俊は、白山長滝寺の勢力に阻まれ、庄川沿いに飛騨に入りました。白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊は熱心に教えを説き、農民たちの間に浄土真宗が広まります。
一方、相次ぐ戦乱で白山長滝寺の勢力が衰えたのを機に、寛政元年(1460)信州から内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。
当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい、白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできました。
浄土真宗のもとで団結した農民たちと内ヶ島氏は激しく対立し、文明7年(1475)数度にわたって武力衝突します。翌年、内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし、対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。
文亀元年(1501)内ヶ島為氏は正蓮寺を再興するため、赤牛に1本の杉の大木を曳かせて放ち、その牛が白川郷中野で止まったので、ここに赤牛に曳かせた杉の木一本を用いて照蓮寺として再興しました。
時代は戦国時代になり、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が討たれた頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みました。
豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、天正13年(1585)金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。
金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけたのか、領地を安堵したうえ内ヶ島理氏を居城の帰雲城に帰してやりますが、直後の天正大地震で内ヶ島氏は居城、城下町もろとも山崩れの中に埋まってしまいました。
金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移し、広大な寺域を与えます。
中野の照蓮寺は「中野御坊」と呼ばれ、変わらずに白川郷の信仰の拠り所でした。
後に飛騨を数度にわたって訪れた円空上人は、白山神を信仰する天台系密教僧ですが、白川郷では阿弥陀仏以外の信仰を排斥する浄土真宗が強いため、庄川流域へ足を踏み入れることはありませんでした。
江戸時代の中頃になると、現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。
特に農地が乏しい下白川郷では、農地と労働力の確保のために3層、4層の切妻合掌造りが発達し、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度が生まれました。分家ができない兄弟は、他家の女性の元へ通い内縁を結ぶ妻問い婚をし、生まれた子どもは女性の家で育てられました。
養蚕が主要産業だった白川郷では、成人した子どもたちが貴重な労働力になります。特に養蚕作業に欠かせない女手は、家業に精を出すため嫁がずに子どもを生むのが習慣でした。
合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行う「結」はこうして生まれました。
白川郷や越中五箇山ならではの産業が、火薬の原料である煙硝の生産でした。
家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、数年かけて煙硝土を作ります。煙硝土を灰汁で煮詰めると純度の高い煙硝ができました。秘境の地だった白川郷は、軍事秘密である煙硝生産に最適の土地でもありました。
明治8年(1868)下白川郷が白川村、上白川郷が荘川村に再編されますが、社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく揺らぎます。煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。
第二次世界大戦後には、化学繊維の普及や農業用水整備による桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなりました。若い人は仕事と便利な生活を求めて村の外へ出てゆきました。
昭和36年(1961)戦後の経済成長を支える御母衣ダムの建設は、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。ダムの建設や村外移住のために無人になった合掌造り民家は都会の料亭や民家園に売られました。
危機感を持った人たちによって保存活動が始まり、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。中野照蓮寺は高山の城山公園に移築され、境内の桜の老木はダム湖畔に移植され「荘川桜」として旧村民の心の拠り所になりました。
昭和42年(1967)冬の豪雪に耐え切れず山間僻地の加須良集落が集団離村し、馬狩集落は村ごとトヨタ自動車に買収されました。飛騨加須良の隣村・越中桂集落もダムの底に沈みます。
合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかります。
村人総出で行う「結」の共同作業も大変なものです。昭和30年代に50棟以上の合掌造りがあった飯島集落では「結」が維持できなくなり、大火をきっかけに全ての合掌造り民家が解体され、村外へ売却されました。
白川郷の多くの集落がダム補償金を得て、便利な現代風住宅に建て替えるなかで、村内最大の荻町集落はダム補償金の対象になりませんでした。そのため、結果的に多くの合掌造りが残されていました。
全国的に伝統家屋保存の機運が高まるなか、白川郷の危機を感じた荻町集落では昭和46年(1971)「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにしました。
やがて、白川郷は国道156号線の改良と相まって観光立村へと歩き出します。
平成7年(1995)白川郷荻町合掌集落世界文化遺産へ登録されると、人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりました。そして平成20年(2008)東海北陸自動車道が全線開通しました。
しかし、交通の便が良くなると共に、日本の農山村文化を継承してきた白川郷の合掌造り民家や風景は、単なる通過点、お手軽な世界遺産スポットへと変わってしまいました。観光客は短い滞在時間であたふたと駆け回り、合掌造り民家の敷地に入り込んで写真を撮り、手軽なお土産を買って白川郷を後にします。
荻町合掌集落は神社仏閣のような名所旧跡ではありません。合掌造り民家を含めた集落全体の景観と、農村に生きる人々の暮らしそのものが世界遺産です。
世界遺産の意義を未来に伝えるために、日本の原風景である農村文化を見つめなおしてみましょう。
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