Panorama飛騨 飛騨路と北アルプスの絶景地ガイド

 
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美濃の歴史

 美濃地方は岐阜県の南部にあたります。岐阜県を一言で表す言葉に「飛山濃水」がありますが、美濃地方は上流の山岳地帯から流れる木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が集まり、上流・中流域の山間地と、下流の水郷地帯から成る「水の国」です。
 旅行観光ガイドでは飛騨高山の陰にかすんでしまったような美濃地方ですが、歴史ガイドでは美濃地方の歴史の厚みは圧倒的です。古代から現代に至るまで、日本の東西回廊の中枢を押さえ、「美濃を制する者は天下を制する」と謳われました。そのため壬申の乱、関が原の合戦など、幾度となく日本史上の重要な決戦地になっています。

古代の先進地

 美濃国は相当古くから開けていたと思われ、縄文時代末期にはすでに稲作文化が根付いていました。稲作や鉄器を持った弥生文化は、西から日本列島に広がってきますが、濃尾平野を境に100年ほど足踏みしたことが分かっています。その頃の美濃地方は弥生文化のフロンティアでした。
 美濃国は、豊かな土壌と水に恵まれ、東国との境界である不破の関が設けられた国土の要衝でもあったので、そこを地盤とする古代豪族は経済的、政治的に大きな勢力を持ちました。中濃のムゲツ氏など豪族たちは奈良時代初期の壬申の乱で大海人皇子側に付き、のちの天武天皇即位に重要な役割を果たします。
 奈良時代から平安時代にかけて、同じ東山道に属した隣国の飛騨国が、山間僻地で「下下の国」にされたのと対照的に、美濃国は一等国の「上国」に位置づけられ、華やかな仏教文化が栄えます。平安末期には、美濃国の北方にある白山が開山され、郡上長滝の天台宗白山長滝寺が山岳信仰の中心地になりました。白山長滝寺は多くの僧兵を抱え、美濃や飛騨に荘園を経営する一大政治勢力でもありました。

国盗り物語

 源平合戦では美濃国を拠点とする美濃源氏が活躍し、御家人として鎌倉幕府や室町幕府を支えます。なかでも、土岐氏は有力守護大名として知られ、まだ日本に都市と呼べるものが京都しかなかった時代に、土岐氏の本拠地であった革手(現在の岐阜市)には全国から商人や物資が集まって、京都に次ぐにぎわいを見せたと伝わります。
 やがて武家の名門・土岐氏一族である斉藤妙椿が美濃国守護に就きますが、応仁の乱で西軍側に就いたため、敗れて土岐氏は没落、戦国時代になると家臣の斉藤道三が美濃国の主に成り上がりました。もとは油商人であった斉藤道三の「国盗り」は、実力者が出自の関係なく名門武士を押し分けて成り上がっていく「下克上」の典型です。

 応仁の乱の頃は、まだ戦いも牧歌的でした。西軍側斉藤妙椿が、東軍側の東常縁の留守を襲って郡上篠脇城を占領した際に、歌人として知られた東常縁がこれを嘆いた和歌を送ったところ、同じく歌人であった斉藤妙椿が感動して城を返還しています。東常縁は連歌師・飯尾宗祇に、朝廷秘伝の古今和歌集奥義を伝授したほどの当代一流の文化人でもありました。

織田信長と「天下布武」

 さて、下克上で戦国大名になった斉藤道三は、息子の斉藤龍興に襲われ、その斉藤龍興は、道三の娘婿であった尾張の織田信長による美濃攻略に敗れます。戦略の要地・墨俣に一夜城を築いた戦いが、豊臣秀吉のデビュー戦でもありました。
 稲葉山城に入った織田信長は、地政学上の立地が気に入り、この地で「天下布武」、武力による天下統一を宣言しました。まず、はじめに城下町「井の口」の地名を中国の故事にならって「岐阜」と改めました。

 岐阜の岐は、中国岐山から取り、古代周王朝の始まりであった土地から、天下統一の拠点を意味するものです。岐阜の阜は、中国曲阜から取り、儒教の総本山、孔子の故郷である土地から、平和な時代が来たときには学問の中心地になることを目指したものです。居城のある稲葉山は、金華山と改められました。
 金華山の山上から山麓には幾つもの豪華な館が立ち並び、城下町には「楽市楽座」の自由市場が許可されて全国から商人たちが集まります。その様子はキリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書に「岐阜のにぎわいはバビロンに匹敵する」とまで言わせました。信長は商人を優遇して資金力と情報力を得て、全国制覇へ乗り出します。

 織田信長が、その拠点を京都に近い琵琶湖畔の安土城に移してほどなく、京都本能寺の変で明智光秀で討たれ、志半ばで倒れます。信長亡き後の美濃国は、後継者を自認する羽柴秀吉と、徳川家康など反秀吉勢力が争い、小牧長久手の戦いの主戦場になりました。また、秀吉亡き後には、石田光成の西軍が、徳川家康の東軍を迎え撃って敗れた「天下分け目の関ヶ原」合戦の舞台になっています。

薩摩義士の河川工事

 江戸時代になると、尾張名古屋では徳川御三家筆頭の尾張藩が壮大な名古屋城を構え、豊かな領地経営を行います。その一方で、隣接する美濃国には有力勢力が育たないように、中小の親藩・外様大名に御家人や尾張藩領、幕府直轄の天領が入り乱れるモザイク状の分断統治が行われました。
 江戸時代初期には、木曽川の西岸を囲む御囲堤が完成しており、尾張藩領は洪水の被害から免れると共に、美濃国側には高い堤防を許さず、遊水地として利用するという差別的待遇が取られます。そのため、木曽三川下流域の村々は、輪中と呼ばれる村ごとに囲い込んだ堤防を作らざるを得ませんでした。
 隣の輪中が洪水で崩れることが、自分の輪中を守るために有効になる、といった状況は、とにかく自分の仲間だけを守ることに必死になるという排他的な「輪中根性」を生み出しました。

 徳川幕府は、木曽三川の洪水防止のために、薩摩藩に命じて三川分流工事を行わせます。しかし、幕府の慈善事業というよりは、明らかに外様の大藩である薩摩藩を敵視して、その弱体化を狙った事業でした。
 薩摩藩が借金をして、莫大な金額と人員を投じた分流工事では、幕府による嫌がらせが相次ぎ、抗議の切腹をした薩摩藩士は100名を超えましたが、不満表明を「造反」と見なす、と脅された薩摩藩庁は、切腹した武士を「事故死」であると片付け、墓の建立や寺院での法要を禁止されるなど差別的、侮辱的な待遇に耐え続けます。

 多大な犠牲を払って完成した分流工事でしたが、江戸時代の技術では洪水を防ぐには至らず、明治時代にオランダの近代土木技術を導入してようやく完成を見ました。また、幕府にはばかって住民の間にひそかに言い伝えられていた、薩摩藩士たちの犠牲もようやく日の目を見ることになりました。住民たちは三川分流の地に治水神社を建立して「薩摩義士」を顕彰し、岐阜県と鹿児島県の友好交流の礎となりました。

文芸と伝統工芸の美濃

 江戸時代、政治的には分断統治が行われた美濃国ですが、中山道が東西に走り、木曽川や長良川の水運に恵まれて、経済的、文化的には大いに栄えました。松尾芭蕉は俳人仲間の多かった美濃大垣を「奥の細道」の結びの地とします。
 戦国時代から続く関の刀鍛冶や、東濃の陶磁器、上有知の美濃和紙などの伝統工芸が栄え、尾張藩領の岐阜町は和紙の集積地としてにぎわいました。その多くが現代まで伝わっています。
 明治時代になってモザイク状の領地がまとまり、飛騨国を編入して岐阜県になりました。それでも、美濃地方には、東濃や中濃、郡上、西濃といった地域ごとの特徴が色濃く残り、郡上踊りなど個性的な文化が彩っています。


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