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名古屋城 徳川の歴史を歩く



 名古屋のシンボル・名古屋城は慶長17年(1612)に築城し、400年を迎えました。
 名古屋の街づくりは城の造営と同時に進められたので、平成23年(2011)は名古屋開府400年の記念イヤーでもありました。まさに「尾張名古屋は城で持つ」なのです。
 城の敷地は非常に広く、正門から入っても東門から入ってもたっぷり歩きます。見どころは金鯱が輝く大天守と、伝統工法で復元工事が進められている本丸御殿です。

9:00〜16:30 無休 500円 電話:(052)231−1700

名古屋城へのアクセス

 名古屋城へは地下鉄名城線と市バス、メーグルで行くことができます。
 地下鉄利用の場合は、「市役所前駅」で下車、入口は愛知県体育館に近い東門になります。築城を指揮した加藤清正像がある二の丸庭園を通って本丸まで歩きます。
なお、「名城公園駅」は却って名古屋城から遠くなるので注意が必要です。
 市バスとメーグルのバス停は、正門前にあります。正門をくぐると大きな広場があり、遠くに天守閣が見えて、名古屋城のスケールの大きさが分かります。

天守閣

 名古屋城本丸にそびえる大天守は、石垣を含めた高さが55.6mあります。
 5層5階建て、18階建ての高層ビルに相当します。江戸時代には北方の濃尾平野を一望できる高さであり、西国からの軍勢の侵攻を監視する役割がありました。明治時代からは、陸軍師団本部や皇室の離宮などを経て昭和初期まで現存し、国宝に指定されていましたが、第二次大戦中の空襲により全焼、現在の天守は昭和32年に復元されたコンクリート製のものです。
 館内にはエレベーターもありますが、各階に鯱の実物大模型や歴史資料が展示されているので、下りにはゆっくり見てまわってはいかがでしょうか。

本丸御殿復元工事

 大天守の脇に大きな工事の覆いがかけられているのは、平成29年の完成を目指して進んでいる本丸御殿の復元工事です。
 戦前に国宝に指定されていた壮麗な本丸御殿は、大天守もろとも戦災で焼失してしまいました。襖など建具だけは事前に取り外して保管され、難を逃れましたが、空き地に礎石だけが残る時代が長く続き、その復元は名古屋市民の悲願でした。
 名古屋開府400年記念事業として、平成21年から伝統工法と木曽五木による完全復元が始まっており、その様子を見学することができます。

金のシャチホコ

 Jリーグの名古屋グランパスなど、名古屋の象徴として愛されているのが名古屋城の金鯱です。古来より、水を吐く伝説の動物として、大きな建物の防火のまじないに設置されていました。名古屋城では、徳川家の威光を知らしめる金鯱のゴージャスさが強調され、凧に乗って鱗を盗んだ盗賊の話など、多くのエピソードを伝えています。
 明治維新の際に尾張藩主・徳川慶勝は、新政府の財政窮乏を助けるため、進んで金鯱を提供しますが、意に反して徳川家降伏の象徴として全国で見世物にされました。
しかし、かえって金鯱が潰されることなく名古屋城に戻ることができました。
 第二次大戦中に大天守もろとも焼失しましたが、焼け落ちた金鯱は金の茶釜になって展示されています。現在の金鯱は一対で88kgの金が使われています。

名古屋おもてなし武将隊

 名古屋市の緊急雇用対策事業として生まれ、予想以上の大ブレイクで名古屋城はもとより、名古屋市全体の観光を盛り上げたのが「名古屋おもてなし武将隊」です。
 織田信長を筆頭に、徳川家康、羽柴秀吉、加藤清正などが名古屋城二の丸庭園でパフォーマンスを繰り広げ、武将隊目当てで名古屋城にやってくるファンも多いほどです。
初代のメンバーは平成24年春に「卒業」し、次期武将隊に交代する予定です。

名古屋城の歴史

 名古屋城は慶長17年(1612)、徳川家康の命により築城されました。
 初代城主は家康の九男・徳川義直で、2代・光友が名古屋の町造りを行い、以来、徳川御三家筆頭・尾張徳川家の居城として17代を数えました。

 織田信長は名古屋城の前身である那古野城で生まれ育ちましたが、その後、清洲城を拠点としたため、那古野台地は寒村が点在する原っぱでした。徳川家康は、尾張を西国の外様大名の謀反に備える防衛の要とするため、手狭で水害に弱い清洲から那古野(名古屋)に城と町を移すことにしました。これを「清洲越し」と呼び、台地に運河を開削して堀川とし、水運を利用して材料を運び込みました。
 名古屋城の築城には、加藤清正や福島正則など豊臣秀吉と縁の深い西国の外様大名が狩り出され、その弱体化のために無茶な工事を宛がわれて、財力と労働力を搾り取られました。築城に合わせて清洲の城下町も名古屋にそっくり移転しますが、寺社だけで3社110ヶ寺が動いたという空前の引越しです。江戸時代には、堀川沿いに並んだ商人町は、運河を利用した水運で栄えました。

 尾張徳川家は徳川御三家筆頭のプライドを持ち、江戸将軍家と張り合いました。
 尾張徳川家7代藩主の徳川宗春は、江戸の8代将軍・徳川吉宗のライバルでした。
吉宗が進める質素倹約・規制強化の享保の改革に反対して、派手好きな宗春は、消費活動を奨励し、積極財政と規制緩和を進めました。名古屋には全国から商人や芸人が集まり、空前の繁栄を謳歌したと伝わります。その影響は、日本有数の芸どころとして今でも残っています。しかし、宗春の治世は長続きせず、将軍吉宗の命によって蟄居謹慎を言い渡されてしまい、名古屋の繁栄も火が消えたようになったと言われます。

 14代藩主徳川慶勝も日本史上重要な役割を果たした人物です。
 慶勝は尊皇こそ初代徳川義直公の遺訓だと考え、将軍徳川慶喜を説得して慶応3年に大政奉還を実現させました。京都では副首相格の議定に就任し、全国諸藩に朝廷への帰順を促しています。官軍の東征が江戸開城まで抵抗を受けることなく、日本が分裂の危機を回避できたのは、徳川慶勝の存在があったからといえます。
 皮肉にも、その後に東北で徹底抗戦した会津若松城主・松平容保と、函館まで転戦した桑名藩主・松平定敬は慶勝の実弟であり、明治維新後の戊辰戦争は、慶勝兄弟が敵味方に分かれた戦いでした。また、名古屋城内の幕府派重臣を処刑した「青松葉事件」も起きています。
 しかし、薩長勢力は徳川慶勝が倒幕に功績を挙げたことを疎ましく思い、新政府が組織された後は徹底的に存在を無視しました。慶勝もまた、徳川幕府の消滅に自責を感じたのか、趣味の写真に没頭し、一市井人として生涯を終えています。
 慶勝が名古屋城を退去する際に撮影した千点以上の写真は、幕末の様子を伝える貴重な歴史資料です。

名城公園

 名城公園は名古屋城本丸、二の丸を含む広大な面積の都市公園ですが、一般的には本丸と堀を挟んだ北園が名城公園と呼ばれています。オランダ風車や日時計がある芝生広場、野球場やテニスコート、プールなどのスポーツ施設、温室のあるフラワープラザなどがあります。
 なお、地下鉄名城線で名古屋城を訪れる際に「名城公園駅」で降りると、かえって遠いので注意しましょう。名古屋城への最寄駅はひとつ手前の「市役所前駅」になります。

園内自由

四間道

 名古屋城の南西、堀川に沿って江戸時代の商家や土蔵が続く街並みがあります。
 徳川家康の清洲越しで移転してきた清洲商人たちが商家を構え、防火用として道幅が四間(7m)あったことから四間道と呼ばれるエリアです。
 堀川に架かる五条橋を中心に発展した名古屋の商人町は、堀川を利用した水運で栄え、川沿いにその数一千ともいわれる土蔵が並びました。明治以降、水運の消滅とともに衰退しますが、その一部は戦災から奇跡的に逃れ、いまでは江戸時代の面影を残す街並みとして、お洒落な雑貨店やカフェ、レストランが営業しています。
 四間道に隣接して、昭和の雰囲気が漂う円頓寺商店街のアーケードが延びており、そのまま名古屋駅付近まで2kmに渡って続きます。



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