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町屋造り



飛騨高山や古川の街並みには古い町屋造りの商家が多く残っています。
表の通りに面した表部分は短く、玄関から中へ入ると奥に細長い造りになっており、鰻の寝床と呼ばれます。
天領で武家の影響が少なかった高山では、旦那衆と呼ばれる豪商たちが経済力を持ち、町の自治を行いました。しかし、大名貸しをしている旦那衆も、表向きは高山陣屋の威光を立て、郡代の面子をつぶすようなことはしませんでした。町屋造りは前側の屋根の高さが約4mと大変低く、大屋根の軒先が道路脇の水路にまで伸びていましたが、高山陣屋より高い建物を造らないためでした。また、町屋の表をわざと質素にする一方で、内部の座敷には贅を凝らしました。

日下部民芸館
吉島家住宅
松本家住宅


表の道路に面した部屋はみせといい、商品を陳列する部屋ですが、明治以降に商店をやめると格子がつけられました。この格子が持つ渋い色調と縦横の直線美が高山の街並みの特徴になりました。
玄関から中へ入ると、土間に屋根裏まで吹き抜けになった広い空間が目を引きます。ここで商売が行われていました。囲炉裏のある勘定場の後ろに、主人の部屋や仏間、座敷などがあって生活の場になっていました。

力強い日下部民芸館の梁
繊細な吉島家住宅の梁
一般庶民の町屋・松本家


店から土間が奥に伸び、土足のまま裏まで行くことができます。奥には中庭があり井戸や台所がありました。中庭に面して土蔵があります。温度湿度が一定で、火災に強い土蔵には大切な家財道具が収められています。もともと古い民家では、調度品や生活用具は土蔵に収納しておき、部屋には物が何もないのが普通でした。また、裏道に面して連続する土蔵の列は火災の際に延焼を食い止める防火帯の役割をしていました。

日下部民芸館周辺
上三之町
上三之町


大正・昭和以降、道路の拡幅や街並みの近代化によって古い商家は次々に姿を消していきましたが、三町筋を中心とする高山の古い街並みは幹線道路から外れていたことが幸いして、奇跡的に残りました。
現在では、伝統的な街並み保存地区に指定されている他、家屋を新築する場合でも、雰囲気に溶け込んだ建物が造られ、落ち着きを持った独特の景観が維持されています。


飛騨の農家



飛騨の農家というと、合掌造りを連想されますが、おなじみの切妻合掌造りは白川郷の中でも現在の白川村、かつての下白川郷と越中五箇山地方にのみ見られるものです。飛騨の中央部から南部にかけては、屋根の形に特徴がある飛騨独特の民家が分布しています。
切妻2階建ての大屋根は勾配はやや緩やか、軒がかなり深く、太い垂木、軒下の小腕に意匠があります。もともと栗の木などの板で葺いたクレ板葺きに石置きでしたが、現在ではトタン板か瓦葺になっています。

大屋根が飛騨民家の特徴
仏壇と仏間は立派です
養蚕のための広い空間


江戸時代初期までの農民は大変貧しく、民家には床がなく土間に筵を敷いて生活していたといわれます。
江戸中期になって現金収入としての養蚕が盛んになると、現在見られる民家が発達しました。蚕を飼うためには広いスペースが必要です。1階は普段は障子や襖で部屋を仕切っていますが、養蚕の時期には全ての仕切りを外して、大きな空間を作りました。大屋根の乗った2階は、ほぼ屋根裏部屋なので、四周に窓があっても切妻部分しか光が入りません。これも養蚕部屋として生まれたものです。土間は作業場として広くとられ、牛や馬も飼われていました。

飛騨の里・田口家
小坂郷土館・清原家
丹生川・荒川家住宅


養蚕業が絶えた現在、どこでも新しい現代風の民家に建て替えが進んでいますが、下呂市上原や高山市朝日町、丹生川町、上宝町蔵柱谷などに風格のある古民家が多く残り、飛騨らしい農村風景を作り出しています。


合掌造り


飛騨のシンボルともいえる切妻合掌造りですが、前述したように白川郷の一部に見られるにすぎません。
白川郷の集落は平家の落ち武者の末裔で、大家族制度も独特の合掌造りも平安時代以前の風習が残ったもの、という説があります。しかし、実際には中世以降の一向一揆で北陸、特に越前から庄川の谷間に流れ込んだ浄土真宗門徒の影響が強いと思われます。

荻町合掌集落
山間にたたずむ集落
合掌造り民家園


飛騨の多くの農村がクレ板葺きの切妻屋根であるのに対し、豪雪地帯の庄川流域、上白川郷・荘川には「荘川造り」と呼ばれる茅葺き寄棟民家があり、同じく豪雪地帯の飛越国境の河合、宮川、神岡辺りでは茅葺き入母屋民家が分布していました。

白川郷の切妻合掌造り
上白川郷・荘川の荘川造り
山之村の茅葺農家


江戸中期に現金収入としての養蚕業が普及すると、農地が少ない下白川郷では養蚕スペースをなるべく広く取るために、3階建て、4階建ての大型の合掌造りが次々に建てられました。また、長男しか正式な結婚を許されず、他の兄弟は妻問い婚で分家ができない独特な制度も、農地と労働力を確保する方法として定着し、明治時代中期まで続いていました。
合掌造りというように、本を開いて三角形に建てたような白川郷の切妻合掌造りの屋根は45〜60°という急勾配の茅葺で、屋根を支える構造には釘を一本も使わず、木を組み合わせて縄やネソという木の弦で縛る方法をとっています。これは雪の重みを分散させる豪雪地ならではの工夫です。また、南北に面して建っており、風の抵抗を最小限とし、さらに夏は涼しく、冬は暖かく保温できるような配慮がされています。
合掌造りの屋根の葺き替えには、金額に換算して数千万円という莫大な手間がかかります。そこで、白川郷では作業にあたって村人が相互に協力し合う「結」の仕組みが発達しました。

合掌造りミュージアム
合掌造りを丸ごと解剖します
村人総出の結の作業


日本の伝統的な民家の中でも特異な発達を遂げた白川郷の合掌造りを見たドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、「これはスイスかスイスの幻想だ」と絶賛しました。
白川郷では御母衣ダムの建設によって多くの合掌造りが湖底に沈み、山奥の加須良集落のように過疎で集団離村するケースも相次ぎました。現在では世界遺産に指定された荻町集落に多くの合掌造り民家が保護されている他は、白川郷合掌造り民家園や高山市の飛騨の里、下呂温泉合掌村などに移築されて見学用の保存家屋になるか、飲食店などの店舗として全国に散らばってしまいました。




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