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飛騨は岐阜県の北部を占める山地で、かつて飛騨国と呼ばれていた地方です。
地名の由来はいくつも説があり、うねうねと広がる山襞から「ひだ」と呼んだ、とか、名馬の産地で、朝廷に「飛ぶように走る馬」を献上したから「飛騨」とか、言われています。
高山と郡上を結ぶせせらぎ街道の分水嶺近く、龍ヶ峰の高原には飛騨共同模範牧場が広がっています。
その草原の一角に、大空を翔る天馬が眠っている、と伝えられる龍馬石があり、飛騨の国名の起こりだと伝わります。
神代の頃、高天原の祖神様は、竜よりも速く空を飛ぶ「龍馬」という天馬を、川上岳と白山の女神にお使いとして遣わしました。龍馬は川上岳の女神にお使いをし、次に白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見しました。我慢しきれず草原に舞い降りた龍馬は、腹いっぱい食べると眠りこけてしまいました。祖神様は、龍馬をそのまま眠らせてやろうと考え、馬の形をした石に変えてしまいました。
飛騨の由来として、天馬伝説はロマンチックで、ぜひこちらの説を推したいところです。
飛騨の歴史の起こりも伝説に彩られています。
古代、大和朝廷がその勢力を全国に広げようとしている頃、飛騨高原には独自の文化を持った先住民族が暮らしていました。
先住民族の首領「両面宿儺」は、前後2つの顔を持ち、4本の手で武器を操り、4本の足で駆ける怪物。
仁徳天皇の時代、朝廷は何度も飛騨に軍勢を差し向けますが、山地の戦いでは両面宿儺にかないません。そこで、名将・難波根子武振熊命を大将にして、大掛かりな平定作戦を決行しました。
両面宿儺は美濃まで出て朝廷軍を迎え撃ちますが、敗れて本拠地の鍾乳洞に逃げ込みます。宿儺を追い詰め、組み伏せた武振熊命は降伏を勧めますが、宿儺はこれを断って討ち死にしてしまいました。
日本書紀には朝廷に逆らう怪物として描かれる両面宿儺ですが、飛騨地方では民衆を導いた英雄、恩人として信仰の対象になっています。
高山市丹生川町の千光寺は宿儺が開いたといい、飛騨地方の古い寺や神社には、両面宿儺や武振熊命の伝説がいまでも伝えられています。
奈良時代、大宝律令が定められ、地方の国々は租庸調と呼ばれる税や貢物を朝廷に納めました。
しかし、農耕が発達せず、特産品もない飛騨の国は、地方の中でも最低ランクの下下の国に位置づけられ、税を免除される代わりに、都で宮殿や寺院の建築工事に携わる匠丁(労働者)を差し出すことになりました。
これが「飛騨匠」と呼ばれる人々です。
匠丁は1里(50戸)ごとに10人(9人の労働者と1人の炊事係)を出し、毎年100人を越える労働者が奈良の都へ上りました。原則1年交代とされていましたが、労働は激しく、食事も自給であったので、逃亡者も多くなって、その取り締まりも厳しく行われたといいます。
ずっと後の明治時代、紡績産業を支えるために飛騨の娘たちが越えた野麦峠は「女工哀史」で有名ですが、奈良時代、都の建築工事を支えるために飛騨の男たちが越えた「位山峠」もまた、悲劇の峠でした。
万葉集には、大工仕事に精を出す飛騨の匠の様子をよんだ歌があります。
「かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄のただ一筋に」
このような匠丁の中から、何回も都へ上ったり、都に住み着いて技術を磨いた名匠たちが現れます。
からくり屋敷を作って絵師・百済川成をからかった匠、日本から木彫りの鶴に跨って中国へ飛んだ飛騨内匠、唐の皇帝に腕前を披露した韓志和など、今昔物語から中国の説話集にまで逸話を見ることができます。
江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自信を持ち、屋台や古民家などに高い建築技術を注ぎました。その伝統はいまでも残っています。
山深い辺境の地でありながら、飛騨に仏教が伝えられたのは意外に古く、日本書紀に記録された飛騨の仏教寺院の記事は西暦686年、ようやく日本各地に寺院が建立されはじめた頃です。
奈良時代の初めには、古川盆地に約8ヶ寺、高山盆地に約4ヶ寺があったと推定されています。
高山市の中心部には、奈良時代から続く「飛騨国分寺」がありますが、創建当時は七重塔がそびえる大伽藍を誇っていました。境内にある大銀杏は樹齢1200年の大樹です。
七重塔建立の際、柱の寸法が短くて困った棟梁に、娘が「寸法の足りない柱を桝組にしたら」と助言しました。みごと七重塔を完成させた棟梁は、柱の秘密が知れるのを恐れて愛娘を殺し、その墓に銀杏を植えたと伝えられています。
その後、戦乱や災害で崩壊するたびに五重塔、三重塔とスケールを小さくしながら再建され、現在では江戸時代の三重塔が立っています。
高山の北東、標高1000mの山頂には、平安時代に創建された真言宗の山岳寺院「千光寺」があります。
山中に19の僧坊や伽藍、飛騨一円に30の末寺を持ち、3000人の僧侶、僧兵を抱える大寺院でした。
源平合戦の頃、木曽谷に近い飛騨南部は源氏の勢力圏でした。木曽義仲が討たれた後、義仲の重臣、今井四郎兼平の一族は萩原に移り住み、現在も今井姓が多く暮らす地区があります。
鎌倉幕府をたてた源頼朝は、文覚上人に命じて下呂・竹原郷に天台宗の山岳寺院「大威徳寺」を建立しました。三重塔をはじめ12坊の伽藍を備えた大威徳寺には、歴代の将軍や執権が参拝に訪れ、美濃国との境には幕府要人の長旅の疲れを慰めるため、常設の能舞台が設けられていたといいます。現在の舞台峠です。
元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まると、後醍醐天皇は全国に国司を復活させます。
全国であっという間に崩壊していった時代錯誤な国司制度が、飛騨ではなぜか奇跡的に生き延びました。
南北朝時代、南朝の勢力下だった飛騨北部には、公家の姉小路氏が派遣され、古川に居館を構えました。
建徳2年(1371)姉小路家綱は弟の尹綱と共に越中国に出兵しましたが、敗れて京都へ帰ります。残された尹綱は室町幕府の大軍と戦って死亡、姉小路氏は小島・向小島・古河の三家に分かれました。
しかし、その後も姉小路氏は飛騨国司を名乗り続け、応仁の乱の頃、古河家・姉小路基綱は歌人として、京都にまでその名が知れ渡っていました。
南北朝時代、南朝方の飛騨北部に対して、南部では北朝・室町幕府が京極高氏を守護に任命しました。
しかし、それは名目ばかりで、実際には下呂・竹原郷に拠点を置く三木氏や、高山・天神山城に拠る高山氏が代官として取り仕切っていました。
三木氏は京極氏の領地を横領、三木直頼が萩原に桜洞城を構え、戦国武将として自立します。
萩原では、北朝御円融天皇の勅願所で天下十刹に数えられながら、戦乱で荒廃していた円通寺を再興して禅昌寺とし、また、久津八幡神社を再建するなど寺社の保護に大きな功績を残しました。
直頼は、大永元年(1521)天神山城の高山外記を破り、高山盆地を手中に収めると、直頼の子、三木良頼は古川盆地で細々と続いていた姉小路家を乗っ取って、自らを京都の名門・姉小路中納言と称しました。
その子、三木自綱も国司姉小路を名乗り、越中の上杉謙信や、美濃尾張の大勢力・織田信長とも同盟して念願の飛騨統一をめざします。
戦国時代、神岡を拠点に高原川沿いの領主として自立していた江馬氏は、甲州・武田氏の勢力下に入って三木氏と対抗していました。
武田信玄は永禄2年(1559)配下の武将、山県昌景に飛騨攻めを命じます。江馬氏と組んで飛騨に侵攻した武田軍は、僧兵団が抵抗する千光寺を焼き討ちしました。1山19坊と称された大伽藍が炎上し、真っ赤に燃えた梵鐘が敵兵をなぎ倒しながら斜面を転がっていったと伝えられます。
また、南では武田氏と連合を組む遠山氏が東濃から竹原郷へ侵攻し、三木良頼が篭城する大威徳寺で激しく戦いました。大威徳寺もほとんどの建物が焼け落ちました。
千光寺はその後、金森長近によって再建されますが、大威徳寺は天正13年(1585)大地震にあって完全に崩壊し、山中に埋もれてしまいました。
天正10年(1582)三木氏の後ろ盾だった織田信長が本能寺の変で討たれると、好機と見た江馬氏は大坂峠を越えて南進し、高山市国府で三木・小島・牛丸の連合軍と激突しました。しかし、この八日町合戦では三木自綱が鉄砲を使った戦いで勝利を収め、飛騨をほぼ統一しました。
このとき敗れた江馬輝盛を追って、13人の家臣が大坂峠で自刃しました。土地の者によって峠に葬られたことから、ここが十三墓峠とも呼ばれることになりました。
源平合戦で敗れた平氏の残党が隠れ住んだと伝わる白川郷、ここは秘境だけあって飛騨の他の地域とは一線を画していました。
庄川の谷には領主・内ヶ島氏がいて、周辺の豊かな金鉱山を押さえていました。
一方、農民たちの間には、鎌倉時代、親鸞上人の弟子・嘉念坊善俊が布教した浄土真宗が広がっており、強い結束を誇っていました。農民たちと領主内ヶ島氏の関係は緊張し、文明6年(1474)内ヶ島為氏は照蓮寺を焼き討ちします。
その後、本願寺・蓮如上人の仲裁によって農民と和解した内ヶ島氏は、白川郷・中野の地に信仰の中心・照蓮寺を再建して真宗門徒との共存共栄をはかりました。
天正13年(1585)金森長近は飛騨侵攻にあたって照蓮寺と連携したため、三木氏と結んだ内ヶ島氏はたまらず降伏します。金森氏に取り入り、なんとか領地だけは安堵された瞬間、天正大地震が発生して居城・帰雲城は崩壊し、莫大な金塊と共に山崩れの中に埋もれてしまいました。
いまも白川郷の帰雲山は巨大な崩壊跡を見せており、埋蔵金探しをしている人もいます。
金森長近は飛騨平定後、真宗門徒の功績を称えて、高山の中心部に照蓮寺を迎え、広大な寺域を与えました。こうして飛騨は浄土真宗王国になっていきます。
飛騨では、かつて白山信仰がさかんで、その後千光寺を中心とする真言密教の山岳信仰、南飛騨に多い禅宗などが栄えましたが、江戸期には浄土真宗の照蓮寺、のちの高山別院が宗派を超えた崇敬を集め「仲間の御坊さま」と呼ばれました。
三木氏がほぼ飛騨一円を支配下に収め、高山に松倉城を構えたのも束の間、京都では織田信長の後継者を巡って秀吉派と反秀吉派の間に争いが起こります。
三木自綱は越中の佐々成政と反秀吉連合を組みました。豊臣秀吉は越中佐々攻めの一環として、配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じます。
天正13年(1585)越前と美濃から飛騨に攻め込んだ金森軍は南北2方向から進撃し、高山市国府・広瀬城に籠もる三木自綱を降伏させました。その後、自綱は追放されて京都へ行き、そこで亡くなります。
一方、三木氏の居城・松倉城では、自綱の子、秀綱が徹底抗戦を続けていましたが、城兵の放火によって落城しました。三木秀綱と家族は北アルプスを越えて信州へ逃亡しますが、山中で土民の襲撃に遭って秀綱は自害、家族も殺害されるという悲劇がありました。
豊臣秀吉は金森長近に飛騨を与え、ここから金森時代がはじまります。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦で徳川方についた金森長近は、引き続き飛騨一国と美濃上有知(現在の美濃市)を拝領し、石高3万3千石の金森藩が成立しました。
金森長近は飛騨領有ののち、かつて高山外記がいた天神山城の跡に高山城を築きました。また、築城にあわせて城下町を整備し、現在の高山の街並みをつくりあげます。
金森長近は近江の武将ですが、京都の文化に造詣が深い文人としても有名で、特に高山では京都を意識した街づくりが行われました。宮川を京の加茂川に見立て、城下町らしくない碁盤目状の通りを引き、東側の丘陵に金森家縁の寺院を集めて東山寺町としました。また、高山城の北には浄土真宗の大寺院・照蓮寺を建立して周囲を寺内町とし、民心の安定を図りました。
現在の春と秋の高山祭りも金森時代にはじまったものです。
また、高山の北には、金森長近の子、可重が増島城を中心とした古川の街並みをつくりました。古川も高山と同じく、京都を意識した碁盤目状の街区になっており、両者とも飛騨の小京都として知られています。
金森家からは、可重の子で宗和流茶道の創始者・金森宗和や、長近の弟で落語の創始者・安楽庵策伝など数々の文化人を輩出しました。その一方、高級な茶道具を所有するだけではなく、三代金森重頼は家宝「雲山肩衝の茶壷」を売って、飢饉の救援金に充てるなど、名君の多い家柄でした。
石高の少ない金森藩の財政を支えていたのが、飛騨の豊富な山林資源と、鉱山資源でした。金森氏の家臣・茂住宗貞は天才的な技術を使って金銀銅亜鉛の鉱脈を発見し、神岡を日本有数の鉱山に発展させました。神岡にあった屋敷跡に茂住の地名が残るほど栄華を誇ったといいます。しかし、宗貞の贅沢な生活は嫉妬や疑惑の対象となり、寛文8年(1668)高山城内で腹心の部下が殺害されると、身の危険を感じた宗貞は逃亡してしまいました。
元禄2年(1689)六代藩主金森頼ときは、江戸城で将軍徳川綱吉の側用人に大抜擢されます。しかし、将軍の意に合わず免職された上、飛騨の領地も没収されて元禄5年(1692)出羽上山へ国替えを命じられました。
徳川幕府は当時窮乏する財政状況を回復させるため、豊かな山林と鉱山を狙ったのだといわれており、それ以来、飛騨は幕府の直轄地となり、藩主のいない天領として明治維新まで続きます。
一方、出羽上山に移封された金森氏は、5年後には美濃郡上藩に転封を命じられます。郡上藩の金森頼錦も幕府の重役に抜擢されましたが、江戸詰めの費用にあえぎ、農民への搾取を強めて有名な郡上一揆を引き起こしたうえ、その責任を問われて宝暦8年(1758)に廃絶されています。
元禄5年(1692)幕府は飛騨を直轄地にし、金沢藩に命じて高山城と城下の武家屋敷を取り壊します。
幕府は宮川の西にあった金森家下屋敷を陣屋とし、江戸から赴任した代官が飛騨の政治を取り仕切りました。高山陣屋は、明治以降も高山県庁、飛騨支庁、県事務所として使われ、270年もの間、飛騨地方の行政の中心地でした。
金森時代、増税のために机上の計算で石高の増加が行われ、飛騨は6万4千石といわれましたが、幕府は元禄検地を行って石高を現実的な4万4千石に戻した上、年貢の減税を行ったので農民に歓迎されました。
また、山林は幕府の重要な収入源だったので、林業に従事する山村には山方米の支給が行われました。
金森時代に主流だった上方文化に加えて、江戸の情報も入るようになり、高山祭りの豪華絢爛な屋台など、京都と江戸の文化を合わせた高山独特の文化が育っていきます。その文化を担ったのが、大名や幕府にまで金を貸していた「旦那衆」と呼ばれる豪商たちでした。
幕府の任命した代官(後に郡代)には、任地の飛騨を愛し、人々に慕われた役人もいましたが、幕府をも揺るがす農民一揆を引き起こした者もいました。
明和2年(1765)第12代代官として大原彦四郎が着任しました。当時、幕府は財政がゆきづまっていたため、大原代官は年貢の前納や商人への御用金割り当て、金森時代からの地役人を外地へ転勤させるなど、人々の不満を招く政策をとりました。
中でも、乱伐によって山林が荒廃したことを理由に、森林伐採の中止と山方米の支給停止を決めたことは、山村の死活問題であるため、猛烈な反発を生みました。
さらに、農民に対しても厳しい検地を行ったため、ついに飛騨中を巻き込む農民一揆が起こります。これが大原騒動です。一揆は明和、安永、天明の3度、16年間にわたって続きました。
農民たちは年貢米の江戸送りに協力した人々の家や土蔵を襲い、検地の無効を京都の公家や江戸の幕府老中、勘定奉行所へ直訴したものの捕らえられて打ち首になりました。
大原代官は飛騨283村の代表者を呼び出し、一揆は過激な扇動に乗せられたもので村々の総意ではない、と申し出させたため、若干19歳の本郷村善九郎を筆頭に立ち上がった農民たちは飛騨一ノ宮の境内で2ヶ月にわたる集会を開きます。
農民一揆に協力しない高山の町へ農産物や物資を売らない経済封鎖をかけた本郷村善九郎たちに対し、大原代官は近隣諸藩に鎮圧を要請し、農民13人を処刑、14人を流罪、数百人を入牢という厳しい弾圧を行いました。処刑される前に、本郷村善九郎が妻かよに宛てた辞世の句が残されています。
「寒紅は無常の風にさそはれて莟みし花の今ぞ散りゆく 常盤木と思うて居たに落葉かな」
農民たちの敗北によって検地が進み、飛騨は1万石増の5万5千石となり、その功績によって大原代官は郡代に昇進します。しかし、大原彦四郎の妻は農民へのひどい仕打ちを咎めて自殺してしまいました。
天明元年(1781)父親彦四郎の後を継いで飛騨郡代に就任した大原亀五郎は、年貢の減税分を農民から取り上げて私費にあて、天明飢饉に対して幕府から支給された救援金をも着服しました。さらに、独断で年貢減税を10年間返上させようとしたため、農民一揆が再燃します。
寛政元年(1789)幕府巡見使が行政事情の査察のため飛騨へ入国しました。農民を率いる大沼村忠次郎は巡見使に大原郡代の悪政を訴え、江戸でも幕府大老松平越中守に直訴しました。
ついに江戸で裁判が行われ、大原亀五郎は八丈島へ流罪、幕府勘定奉行や美濃郡代も処罰されるなど、農民側が大きな勝利を収めました。
円空上人は美濃国生まれの天台宗の僧侶で、仏像12万体の造顕を発願して全国を巡歴しました。天和元年(1681)54歳ではじめて飛騨に入り、その後数回にわたって飛騨を訪れ、この地に1万体の円空仏を残したと伝えられます。
荒削りで躍動感あふれる円空仏は、独特の暖かい微笑と不思議な魅力を持っています。円空が旅の先々で彫刻して人々に与えたもので、庶民的な仏として大切に守られてきました。
好んで滞在した千光寺では、傑作の両面宿儺像の他、立木に仁王像を彫刻するなどの逸話を残しました。
播隆上人は北アルプスの峰々を開山した僧侶です。笠ヶ岳を開山した高山宗猷寺の僧・南裔上人の後、登山道が荒廃していることを知った播隆上人は、上宝の岩窟で修行を重ね、文政6年(1823)地元の農民を引き連れて笠ヶ岳に登り、登山道を再興しました。
そのとき現れた御来光(ブロッケン現象)と、天を突く槍ヶ岳の雄姿に感動した播隆上人は、諸国を回って寄進を募り、文政9年(1826)に上高地から槍ヶ岳登頂に成功しました。その後も頂上に仏像を安置し、難所に鉄鎖を取り付ける、など登山道の整備を行い、北アルプス登山のさきがけとなりました。
いまでも、北アルプス飛騨側の開山祭は播隆祭と呼ばれています。
南の御嶽山では、昔から75日もの修行を納めた行者にしか登山が認められていませんでした。天明5年(1785)尾張の覚明行者は神官の反対を押し切って、水行だけの簡単な修行で木曽黒沢口から御嶽山に登り、広く信仰登山の道を開きました。
次いで覚明行者は飛騨小坂口の開山をめざしますが、山中で亡くなり、飛騨からの信仰登山は定着しませんでした。
高山に生まれた江戸時代の国学者・田中大秀が文化12年(1815)、江戸街道の脇にあった稲置森を、延喜式にある古社・荏奈明神であると考証して再建し、その傍らに住居を定めました。
田中大秀は本居宣長の弟子の国学者です。荏名神社の傍らで、門下生に国学や和歌を教授し、その数は飛騨内外に300人を越えていました。大秀の蔵書は荏名文庫といい、高山市郷土館にあります。
明治7年(1874)、小説家・島崎藤村の父・島崎正樹が一宮・水無神社に神官として派遣されました。幕末から明治維新にかけての激動の時代を描いた「夜明け前」の主人公・青山半蔵は藤村の父親がモデルになっています。
「木曽路はすべて山の中である」の有名な書き出しから始まる「夜明け前」は、幕末、尊皇攘夷を強硬に唱える平田国学に魅せられた馬籠宿の青年・青山半蔵が、大きな期待を持って迎えた明治維新の近代化に失望し、ついに発狂してしまう物語です。
慶応4年(1868)、明治維新が起こると郡代内膳正功は江戸へ去り、飛騨は新政府に接収されました。
その後、高山県初代知事に任命されたのが梅村速水、水戸出身でまだ27歳の青年でした。新時代の理想に燃える梅村知事は次々と新政策を打ち出します。
堤防工事や新田開発、孤児の保護などは善政と言われましたが、一方で林業を生業にする山村に幕府が支給していた山方米を廃止し、商業を商法局による専売制にして、旦那衆から経済活動を奪いました。
梅村知事は反対者への処罰を厳しく行ったため、ついに人々の不満が爆発し、梅村騒動が起こります。
明治2年(1869)出張先の京都で騒動を聞いた梅村知事は、急いで飛騨へ引き返したものの、萩原で農民一揆の暴徒に襲われ、美濃苗木藩へ逃亡しました。まだ戊辰戦争の続く動乱期で、飛騨で無用の騒動が起きるのを嫌った新政府は梅村知事を解任して投獄し、翌年、東京の刑務所の中で亡くなりました。
高山県は明治4年(1871)廃止されて松本に県庁を置く筑摩県に合併し、さらに9年(1876)筑摩県の廃止に伴って岐阜県に編入されました。
明治時代、外貨獲得のための産業振興が図られる中で、発展していったのが製糸業でした。生糸は、その原料の蚕から技術まで、全て国内で自給できるためです。その中心地は長野県諏訪地方にあって、大規模な製糸工場が次々に作られました。
明治中頃から飛騨の貧しい農村の娘たちが長野県の製糸工場へ出稼ぎに行くようになりました。現金収入のない家計を助けるために12歳から工女の出稼ぎに行きました。1日14時間ものきつい労働でした。
映画化もされて有名になった女工哀史は、雪に閉ざされた冬の野麦峠を越えて長野県へ向かった工女たちの姿を描いています。工場で病気に倒れ、迎えに来た兄の背中で「ああ、飛騨が見える」と言って息絶えた政井みねの像が乗鞍岳に見守られた野麦峠の頂上に立っています。
一方、かつて糸引き工女だったお婆さんたちには、息苦しい山村を出て製糸工場で働いたことを楽しく思い出す人も少なくありません。古川で1月15日の晩に行われる三寺参りは、正月に帰省した工女たちが着飾って出かけたので、「嫁を見立ての三寺参り」と呼ばれて盛大になっていった、ともいわれています。
明治時代になると、神岡や高根、丹生川をはじめ飛騨各地で鉱山開発が盛んに行われるようになりました。
今は乗鞍岳山中の無人の地に、北海道と名づけられた鉱山町が出現し、小学校まであったといいます。精錬所から立ち上る煙で森林が枯れてしまったことから、千町尾根には「枯松平」の地名が残っています。
世界に日本アルプスの素晴らしさを紹介したウェストンは、明治25年(1892)の乗鞍岳登山の際に、平湯大滝の上流にある鉱山に泊まり、工夫の宴会に芸人が呼ばれるほど賑わっていた様子を書いています。
飛騨の鉱山の中でも、最大規模を誇るのが三井組(後の三井金属工業)が経営する神岡鉱山でした。
戦前、戦後と時代を通して発展し、日本を代表する非鉄金属鉱山として戦後の高度成長を支えましたが、一方で、高原川へ流した排水に含まれるカドニウムが神通川下流の富山県の人々に深刻な公害病「イタイイタイ病」を引き起こしました。
その後、亜鉛などの輸入価格が下がったため、日本国内の鉱山は採算がとれなくなり、神岡鉱山も採掘をやめて輸入鉱石の精錬を行うようになりました。さらには、鉱石を運んでいた神岡鉄道も平成18年(2006)に廃線になりました。
一方、閉山となった坑道を利用して作られた宇宙線観測施設「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」は、微量の素粒子ニュートリノの検知に成功し、平成14年(2002)東京大学の研究者小柴昌俊教授のノーベル賞受賞に貢献しました。
長い歴史を通して、飛騨の国は険しい山や深い谷に隔てられた交通不便な辺境の地でした。
明治時代から鉄道建設の願いは強く、政府への請願が行われていました。大正7年(1918)に高山線の建設が国会を通過し、大正9年の工事開始以来14年を経て昭和9年(1934)ようやく全線開通しました。
高山駅から岐阜駅までわずか3時間47分、という高山本線の開通は飛騨の夜明けとなりました。特に、明治時代の大洪水で壊滅的被害を受け、復興しつつあった下呂温泉では、高山駅に先駆けて昭和5年に下呂駅まで部分開通した鉄道が、その後、日本有数の一大温泉地へ発展する起爆剤となりました。
一方、最も遅れて開通した高山駅では、昭和11年(1936)の市制施行と併せて発展が期待されたのも束の間、時代は戦争一色になって開発どころではなくなり、皮肉にも古い街並みが保存されました。
戦後、昭和40年代に入るとモータリゼーションの高まりと共に、名古屋と富山を結ぶ国道41号線が整備されます。しかし、長野県を通して関東方面と結ぶ国道158号線には、標高1790mの北アルプス安房峠が立ちはだかっていました。北陸方面から関東へ向かうトラックは、神岡・平湯経由が最短ルートです。そのため、大型車同士のすれ違いもままならないヘアピンカーブが連続する安房峠では、大型トラックや観光バスの渋滞が慢性化し、また、冬季は通行止めになるため、トンネル建設が地元の悲願でした。
飛騨と信州を貫く安房トンネルは、昭和47年(1972)に工事が始まり、やがて、中部縦貫自動車道の一部に格上げされました。しかし、活火山・焼岳と休火山の乗鞍岳に挟まれた安房峠は火山地帯であり、破砕帯の採掘で熱水や火山ガスが噴出するなど、その工事は困難を極めました。特に平成7年(1995)には長野県側の中ノ湯で火山ガスを含む水蒸気爆発が発生し、4人の犠牲者を出す大惨事になりました。
工事はルートを変更して続けられ、長野オリンピックを間近に控えた平成9年(1997)に安房トンネルは有料道路安房峠道路として開通しました。奥飛騨はいまや関東から飛騨への玄関口になり、高山本線開通に続く飛騨の第2の夜明けと呼ばれています。
さらに、南からは名神一宮ジャンクションから東海北陸自動車道が長良川沿いに北進し、平成12年(2000)に飛騨清見ICが開通、16年(2004)に中部縦貫道の高山西ICまでが開通し、高山が高速道路時代に入りました。14年(2002)には北から白川郷ICまでが開通しており、平成20年に日本最長を誇る飛騨トンネルによって飛騨清見ICと白川郷ICが結ばれ、東海北陸自動車道が全線開通しました。
明治37年(1904)飛騨電燈株式会社が水力発電による電力事業を始めました。
急峻な地形と豊富な水資源を持つ飛騨では、ダムと水力発電所建設が国によって進められ、戦後には日本有数の大規模ダムが次々に作られました。電力は関西や名古屋の工業地帯に送電されて、高度経済成長を支えました。
昭和35年(1960)に建設された御母衣ダムは、庄川の流れを塞き止め、白川郷の数多くの合掌集落を湖底に沈めました。その中には、高山市へ移築された浄土真宗の古刹・照蓮寺も含まれますが、境内にあった樹齢450年の荘川桜は水没を惜しまれて、多大な困難の末に高台に移植されました。ダム湖畔に変わらぬ美しい花を咲かせる荘川桜の大樹は、水没地住民のふるさとの象徴となっています。また、貴重な合掌造り民家を移築して、高山市の「飛騨民俗村」や下呂市の「下呂温泉合掌村」がオープンしました。
昭和44年(1969)には高根ダムの完成で高根村の主要な集落が水没し、飛騨川上流は朝日、秋神、高根第1、第2ダムと連続するダムによって寸断されてしまいました。
さらには昭和51年(1976)水資源公団の岩屋ダム、馬瀬川第2ダムが建設されました。相次ぐダム建設は村の財政を潤し、その後も電源交付金など優遇措置がとられてきましたが、集落の水没による住民の転出は、過疎化の引き金を引くことにつながりました。
高山市の東にそびえる乗鞍岳は、飛騨三郡にまたがり、古くから飛騨の象徴として親しまれてきました。
江戸時代は、円空上人が登頂するなど信仰登山の対象になり、登山道の整備が進んだ大正時代からは一般の登山もさかんになりました。
大正3年(1914)平湯分教場に教員としてやってきた篠原無然は、社会教育や女工問題に取り組むとともに、北アルプスを山岳公園にすることを説いて、地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備しました。
昭和16年(1940)、太平洋戦争が始まると、乗鞍岳のなだらかな山容に目をつけた軍部によって、山頂に航空機エンジンの高地実験場の建設がはじまります。軍部から協力を求められた濃飛乗合自動車株式会社と高山市は、終戦後に乗鞍岳が観光地となることを見込んで投資を行い、バスが通行可能な道路幅を確保しました。
結局、航空機エンジン実験は成果が出ないまま終戦を迎えましたが、地元の見込んだとおり、乗鞍岳の自動車道路は飛騨観光の先駆けとなりました。終戦直後の昭和23年(1948)には登山バスが運行を始めています。
その後、有料道路乗鞍スカイラインとしてオープンしましたが、夏休みシーズンには山頂駐車場に入りきらないマイカーで渋滞し、自然環境に悪影響を与えていました。そこで、有料道路の償還期限となる平成15年(2003)から岐阜・長野両県は乗鞍岳山頂につながるスカイラインとエコーラインでマイカー規制を実施しています。
昭和45年(1970)には、新穂高温泉から北アルプス・西穂高岳の千石平を結ぶ新穂高ロープウェイが開業しました。かつては観光客で賑わう信州・上高地に対して、裏穂高と呼ばれていた新穂高温泉ですが、今では日本一の露天風呂天国として人気の山岳観光地になっています。
明治22年(1889)、市町村制が実施されて、飛騨は大野郡・吉城郡・益田郡の3郡の中に、高山町・船津町・下呂町の3町、31村となりました。その後、昭和11年に高山市が誕生しました。
戦後の昭和30年(1955)、昭和の大合併によって、飛騨は1市3郡19町村になっています。
平成の大合併はさらに大きな変化をもたらしました。平成16年(2004)、国府町・上宝村を除く吉城郡が合併して飛騨市になり、益田郡5町村が合併して下呂市が誕生しました。翌17年には白川村を除く大野郡全町村と吉城郡国府町・上宝村が高山市に吸収合併されました。
白川村は平成7年(1995)にユネスコの世界遺産に登録された観光地、白川郷合掌集落を抱えるため、高山市との合併を望みませんでした。
中でも、新生高山市は大阪府や香川県より広く、東京都に匹敵する面積を持ちながら、人口は100分の1という状態です。少子高齢化によって過疎化が進み、地方交付税が削減されてゆく中で、3市1村とも財政難や将来の発展について苦慮しています。
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